弘高通信教育部の誕生

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昭和二十三年、弘前高等学校に「通信教育部」として通信制の課程が発足した。戦後という時代の要請でもあった、教育の機会均等という方針に沿って、津軽地域の勤労学徒の教育に果たした役割と意義はきわめて大きい。同年二月、第一回の生徒募集を行い、選考の結果、二〇二人に入学の許可を与えている。選考の基準は、戦前に教育の機会に恵まれなかった女子を優先すること、全日制・定時制に通学不可能の地域に居住する者を採ることなどとし、学区全般にわたって偏ることのないようにした。
 しかし、教科書や学習書も満足にない中での通信による開講であったため、生徒の側には不安や焦燥があり、教師側には動向のつかめない生徒の対策が必要とされた。そこでなされたのが弘高通信教育部懇談会である。中弘南地区(弘高)・青森地区(青森女子高〔のち青森高校と統合〕)ご西北地区(木造高)の三地区で行われた結果、生徒出席者は延ベ一九〇人を超える成果を上げた。これは教員側の熱意と生徒側の心理的な要求がマッチしたこともあり、通信教育における面接の事始めでもあった。悪条件を克服するために、誠心誠意奔走した教職員の苦労に呼応する形で誕生した絆ともなった。
 しかし、教員、生徒の意欲にもかかわらず、制度の未成熟や無理解、社会経済的な環境の厳しさが、通信教育そのものにはあった。翌二十四年の懇談会にしても、農閑期などを考慮して開かれているが、出席生徒数も少なく、教師側の指導も十分できていなかった。ただ、懇談会の開催は、生徒の理解を促し、自発的な学習グループができるなど、決して無益ではなかったといえよう。
 昭和二十五年になると、新制中学の卒業生がストレートに入ってくるようになり、創立当時、入学目的の第一位だった「教養を高める」は「高校卒業の資格を得たい」に変わってきた。二十八年十二月十八日、県教育委員会は臨時会を開き、通信教育を強化拡充し、通信教育だけによる高校卒業の資格を与えることを決議した。新聞は、全国初の試みとして四ヵ年計画で高校卒業資格を与えることを大々的に報道した。これは、次年度の入学者数にかなりの影響を与えた。また、この年から毎月二回の日曜講習(スクーリング)も実施されている。昭和三十年、高校卒業資格授与が文部省から認可され、通信教育が発足して以来の新記録、応募者九〇〇人、入学を許可された者四六三人を数え、ピークに達している。
 三十一年三月、通信教育にとっては記念すべき卒業式が行われた。弘前高校通信教育が実施されてから八年目にして、最初の卒業生が二人誕生した。三十六年には学校教育法が改正され、全日制や定時制と対等となった。三十八年には、学習指導要領改訂により「NHK学園高等学校」が開校し、協力校となった。