ストライキの顛末

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地方労働委員会の職権斡旋も不調に終わり、争議は膠(こう)着したが、会社側が裁判所に申請していた業務妨害排除仮処分が認められて組合側は守勢に入り、全車輛のバス運行が確保された。そして五月三十一日、組合側がピケでバス運行を阻止しようとして、執行吏、第二組合員、臨時守衛と衝突、それに警官隊が介入してピケが破られ、バスの運行が開始された。
 この間、深刻な影響を受けた津軽地区の商工業者は、五月十九日、バス運行確保弘前市民大会を開いて、バスの運行確保を労使、裁判所に求め、さらに市営バス運行を要求した。山崎知事も動いたが、争議の調停は中央労働委員会に持ち込まれ、七月九日中労委の仲裁裁定を労使がのんで争議は解決した。解雇は、二〇人のうち、係争中の三人と組合役員四人は保留で、他は取り消しとなった。裁判は、昭和四十三年(一九六八)に最高裁で一審の解雇無効判決が確定した。組合役員四人は三十八年八月、私鉄総連などが入り、和解で任意退職となった。敗れた第一組合は四十三年に八年ぶりに賃上げストを決行、以後組織を拡大し、平成六年(一九九六)、三五年ぶりに二つの組合は統一された。