合併問題のなかで石川町は各方面から合併推進の対象候補に挙げられていた。県は大鰐・蔵館両町の合併に石川町と碇ヶ関村を取り上げていたし、弘前市も弘前電鉄の開通から石川町との合併を表明していた。しかし碇ヶ関村が自立に固執し、石川町が弘前市との合併交渉に取り込まれている間に、大鰐・蔵館両町は単独合併に踏み切った。昭和二十九年(一九五四)七月一日、大鰐町の誕生である。その後、前述したように県の第二次試案で石川町は合併対象から外される。そのため石川町は去就に迷っていた。けれども町の幹部や町会・町民のなかに合併反対論が根強くあり、石川町は合併交渉から圏外的立場に立だされたのである。
昭和三十年四月三十日、石川町長が桑田貞一に代わり、議会議員も改選された。一方で弘前市も桜田清芽から岩淵勉に市長が交替し、その岩淵が病に倒れた翌年二月十八日の選挙で藤森睿が市長となった。双方の首長が交替したことで、石川町合併問題は本格的な議題となる。国側も同年二月七日「町村合併の完遂に関する件」を閣議決定し、未合併の市町村に対する合併を促進するよう通達している。これを受けて県は石川町と弘前市の合併に乗り出してきたのである。