混乱・混迷の合併交渉

466 ~ 467 / 965ページ
県は石川町と弘前市の当局幹部を中心に折衝を重ね、合併促進の協議を開始した。昭和三十二年(一九五七)一月十日には県主催の座談会も開催するなど、県の姿勢は積極的だった。その結果、石川町当局者の間では弘前市か大鰐町への合併が望ましいとの結論になった。石川町でも町民の意向を調査した結果、町民の大勢は弘前市との合併に賛同する形勢だった。
 藤森市長は「大弘前市」建設のため石川町や大鰐町との合併を推進していた。一月十八日、県の斡旋で弘前市・石川町合併協議会が開催された。この協議会で石川町の弘前市編入は原則的に了承され、合併が成立するかに見えた。ところが合併交渉の段階で、石川町議会議員を中心とした合併反対派の動きが台頭しだした。二月十日、石川小学校で町民集会が開かれ、町民に対し合併反対が宣伝され、町議会議員も県議会へはたらきかけ始めた。

写真150 石川町の合併反対運動

 三月十六日の石川町議会は、すでに反対派の運動が盛り上がりを見せていた。議場は開会前から大混乱となり、警察まで出動する騒ぎとなった。開会された議会も大いに紛糾し、議長不信任案まで持ち出されたが、合併案は賛成一二、反対七、白紙一で弘前市との合併が議決された。これに対し弘前市議会は、石川町議会での採決直後、わずかに五分間で合併議案を可決している。しかし半ば強引とも思われる合併交渉に対し、合併反対派の町議会議員が執拗な反対運動を展開しだした。
 反対派の町議は南津軽郡選出議員団にはたらきかけ、県議団が知事に合併議案の撤回を申し入れる事態となった。南郡議員団は、また、自民党議員にも訴えかけるなど、その動きは執拗を極めた。三月二十三日に県議会へ提出された合併編入案は、事前に開かれた自民党の議員総会で、南郡議員団の要望を取り入れることとしたため、二十五日の本会議で賛成少数で否決された。市町村議会の議決を県議会が否決する前代未聞の事態は、こうして起こった。県議会では市町村議会の議決は尊重するという意味で、可決することが通例だった。石川町内の反対運動が熾烈を極め、南郡議員団の結束と要請が強硬だったことから、自民党議員も同調し、未曾有の原案否決となったわけである。これに対し県政クラブ(保守系無所属)や社会党は、市町村議会の議決を県議会が否決したとして非難した。南郡議員団の行動に対しても、反対運動の本心が石川町の合併問題よりも、同町の得票によって左右される南郡議員の保身工作にあったとして強く非難している。