米市場開放と平成の大凶作

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昭和六十年代半ば以降、「経済構造調整」政策が進められた。その基本政策は「国際的に調和の取れた産業構造への転換」を図るとして、特に「重厚長大」型産業としての石炭・鉄、及び農業の国内産業としてのあり方が批判の対象にされた。これ以後、顕著なのは日米貿易摩擦の代償としてアメリカからいっそうの農産物の自由化が押しつけられることになったことである。特に、このときターゲットになったのは、わが国の米の自由化であった。財界やマスコミなどから「農業過保護論」「農産物割高論」などの農業バッシングが続き、その政策提起は「市場原理の導入、内外価格差の縮小、農業の体質強化」などに要約されるが、具体的には食糧管理制度の改廃、経営規模の拡大によるコスト低下などの構造政策が求められた。
 米市場の開放が全国的に大きな政治課題になり、米自由化への危機感が生産者や農業団体の自由化反対運動となって、消費者団体も巻き込んで展開された。このような中で生じたのが平成五年の冷害・凶作であった。
 青森県の第二次大戦前までの米収量は全国最低ランクで推移していたが、戦後は飛躍的な収量の向上を達成し、昭和四十二年(一九六七)一〇アール当たり五四二キログラム、同五十三年(一九七八)同六一四キログラムの平均収量を上げ、トップ水準にまで上がった。しかし、一九八〇年代に入ると豊作年を除いては六〇〇キログラム水準を超えることはできなくなった。青森県の米収量がわが国のトップ水準に立ったのは、耐冷稲作技術研究の進展であり、冷害防止試験が継続されてきたことである。そして、その結果として耐冷・多収の品種の開発と農家の米栽培技術の向上が実を結び、冷害克服の成果を上げてきた。
 しかし、平成五年(一九九三)の作況指数は青森県二八、津軽地域においても四五とまれに見る低い数字であった。その原因として、①異常気象、②低温、日照不足による生育遅延・複合型障害、③基本技術の不実行などが挙げられたが、兼業化、高齢化などによる米づくり農家の脆弱性やコメをめぐる生産条件の悪化(生産者米価の引き下げ、減反・転作の強制、銘柄米栽培の追求など)も見過ごすことのできないことであった。
 こうしたことが引き金となり、この間、農業現場では新規就農者の激減、担い手の高齢化が一段と進み、農業を「きつい・汚い・危険」の「三K産業」視するゆゆしき傾向を助長させた。
 こうして「平成の大凶作」は、米不足と米輸入の誘因となった。さらに、この年(平成五年)の十二月、政府はGATT(ガット)(関税および貿易に関する一般協定)の合意案を受け入れ、米市場の開放を行った。
 この後、平成七年(一九九五)一月WTO(世界貿易機関)体制がスタート、十一月新食糧法が施行され、外国産米(ミニマム・アクセス米)が恒常的に輸入されるとともに、米流通の自由化が進み始めた。
 それに伴って、津軽地域においても「食味」重視の傾向の中で、量から質への転換を余儀なくされ、市場評価の低い県産米の改善に取組み、「うまい米」「売れる米」を目指し、超銘柄米づくりにより「自由化」「国際化」時代に対応することが課題となってきた。
 今日、稲作農家は、経営規模の拡大、大型トラクター・田植機・コンバインなどの機械化の進展、新品種(つがるロマン、ゆめあかり)・減農薬技術の導入などを通して、環境保全型の米づくりを目指している。

写真188 機械化の進む稲作農業