柴田女子高校の繁栄

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昭和三十年、創立者の次女でもあり、生粋の家庭科教育人として世人から認められていた今村敏が第三代校長に就任した。今村校長就任後の昭和三十年代は、校内施設の改善とともに、柴田女子高校が家庭科教育推進校として面目躍如たるものがあった時であった。
 三十二年、文部省からの再度の産業教育研究指定校として異例の連続指定を受けたのをはじめとする、校内ホーム・プロジェクトの研究発表、家庭クラブ結成による生徒の諸研究は、東北、全国大会での華々しい活躍となり、なかでも、三十三年の「弟達の家事労働への協力」(全国最優秀賞)、三十九年、理科クラブの「リンゴ酢の研究」(全国特選)は、柴田女子高校家庭科教育の真価を遺憾なく発揮したものであった。
 三十五年五月、北瓦ヶ町の学園本部から出火し、短大、栄養学校、中学校の校舎のほか、講堂、学生寮のすべてが灰燼に帰すという出来事があった。豊原にあった柴田女子高校は難を免れたが、中学校が引っ越してきた。まもなく本部と短大は北瓦ヶ町に、中学校は高校敷地内に再建されたが、時を同じくして起こった高校生急増対策として、旧陸軍の兵舎を改造して使っていた柴田女子高校も手狭になり、かつ、老朽化し、新たな校舎を必要とするようになっていた。
 三十八年、県内でも珍しい円形四階建ての瀟洒な建物が柴田女子高校の新校舎として完成し、四十一年には保育科と衛生看護科を加え、従来の普通科、家政科を合わせて定員一四七〇人の大規模校となった。その一方で、開校当初あった別科(一年課程)が、三十八年三月の卒業生をもって、消えていった。
 学校法人柴田学園は、五十八年九月十四日に創立六十周年記念式典を挙行したが、創立者柴田やすが確立した建学の精神は脈々と息づいており、教職員、PTA、生徒らが一丸となって困難を克服していくバックボーンが基礎にあることは疑いを容(い)れない。