家庭クラブと理科クラブが優れた研究により全国の最優秀の賞を授けられたことはすでに述べたが、放送部もまた、三十八年と四十二年の放送コンテストで全国制覇を果たしている。これは、柴田女子高校が三十一年から視聴覚教育に取り組んできた成果であるとともに、四十年にNHK放送教育研究指定校の指定を受け、完全防音のスタジオを設けるなどして自ら努力した賜物でもある。五十四年には三たび文部大臣賞の栄冠を手にした。
一方、運動部においても、二十年代後半から顕著な成績を上げ始めており、それは生徒数の増加につれてますます著しくなった。いち早く頭角を現したのがバトミントン部で、二十七年から三年連続でインターハイに出場し、善戦した。次いで、スキー部の黄金時代がやってくる。三十二年度のリレー競技の初優勝から四十年度まで九連勝を飾り、県内他校を寄せつけなかったばかりか、インターハイでも二度の優勝を遂げた。しかし、総合順位ではいまだしの感があったものの、五十二年二月、北海道名寄で開かれたインターハイで、ついに宿願の総合優勝を成し遂げた。これは、本県女子スキー部としては初の快挙であった。このときのメンバー赤坂明子は、その後冬季オリンピック札幌大会に日本代表として選ばれ、世界の強豪と技を競うことになった。
五十年代には、軟式庭球部もテニス名門校として全国に知られる存在なったほか、弓道部、空手道部の健闘も光るところである。