発禁となった「渋茶」夏の号

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明治三十九年から四十年の「弘前新聞」に弘前渋茶会の句会(同前No.七三四)の選句が掲載されているが、選者は佐藤紅緑であった。ところが、その翌年の四十一年発行の「渋茶」が発売禁止になったのである。秋の号(同前No.七三五)に「何にが故に発売禁止となりしか、吾人其理由とする処を知らず」と〈弔文〉を載せた。俳句雑誌が発禁になるということ自体が異常事態であるが、社会主義への弾圧の厳しさが背景にあったようである。