明治四十二年、当時注目を集めていた歌人の川村杜山(かわむらとざん)(明治二二-明治四二 一八八九-一九〇九 弘前市)が二十歳の若さで服毒自殺をした。失恋が原因と思われるが、世間の反応は冷淡であった。しかし、詩人の大塚甲山(おおつかこうざん)(明治一三-明治四四 一八八〇-一九一一 上北町)が、杜山の死は北村透谷の死に比すものと反撥し、杜山も回覧同人であった「蘭菊会」は追悼号(資料近・現代1No.七三六)を出した。
郷土作家研究家の藤田龍雄(ふじたたつお)(昭和三-昭和五五 一九二八-一九八〇 平賀町)は「杜山の死は地方にいて文学にいそしむ青年たちの心に大きく反響した。恋愛至上主義に死せる杜山を青森県という地域社会は『新派歌人の厭世病ならん』と疎外し、彼の苦悩を理解しえなかったのである」と慨嘆し、「杜山のように死ねずして、生きているからには自己の生命を燃やし尽くして生きている証を立てねばならぬと願望する青年群像は、故郷を捨て、東京へと流れこむのである」(『青森県文学史』1、昭和五十二年 北方新社刊)と断じた。藤田龍雄の指摘は、まさに〈地方と中央〉という、文学にとって普遍的な問題に触れているゆえに重要である。