わが国に初めて正統の様式建築の設計技術を伝えたのがジョサイア・コンドルであることは既に述べたが、彼は自ら設計活動をし、その実践を通して学生を教育した。こうして誕生したわが国の建築家が実務で活動するのは明治二十年(一八八七)以降のこととなる。以来、これを受けてわが国でも建築教育が盛んになり、各地の大学や専門学校にも建築学科が設置されることになる。
明治四十三年(一九一〇)、弘前に県立工業学校が設立され、建築科を置いた。やがて大正時代に入ると工業学校の教師が設計活動を実践するようになる。工業学校二代目校長・安美賀(やすみが)は、大正四年(一九一五)に黒石銀行を、大正十一年(一九二二)には弘前初のコンクリート造壁式三階建ての「角は」を設計する。同じく工業学校教諭阿保喜久五郎(あぼきくごろう)は、堀江幸治とともに大正十二年(一九二三)に弘高職員宿舎を、大正十五年(一九二六)には弘前で二番目のコンクリート造の弘前無尽ビル(現三上ビル)を設計する。ここにきて、ようやく建築の設計だけを仕事とする「建築家」の誕生をみ、建築の近代化が遂げられることになるのである。