タイトル
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弘前御城下町割屋敷割
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タイトル(カナ)
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ヒロサキ ゴジョウカ マチワリ ヤシキワリ
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タイトル(ローマ字)
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Hirosaki gojoka machiwari yashikiwari
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タイトル関連
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タイトル関連(カナ)
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タイトル関連(ローマ字)
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欧文タイトル
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タイトルに関する注記
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作成者
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作成者(カナ)
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作成者(ローマ字)
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出版・製作者
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出版・製作者(カナ)
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出版・製作者(ローマ字)
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製作年
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年代不明
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製作年終
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数量
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1舗
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形状
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大きさ
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大きさ(縦)
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328cm
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大きさ(横)
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306cm
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媒体
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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弘前の町割計画図下書と思われる
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内容(カナ)
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ヒロサキ ノ マチワリ ケイカク ズ シタガキ ト オモワレル
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内容(ローマ字)
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Hirosaki no machiwari keikaku zu shitagaki to omowareru
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解題・説明
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城下町を描いた城下絵図には、「正保城絵図(しょうほうしろえず)」のように江戸幕府に提出することを目的とした幕用図と、藩組織の中で活用されることを目的とした藩用図に区分される。このうち後者についてはさらに①城下町建設や築城に際して作成された計画図、②軍学上の検討や城攻めなどの純粋な軍事目的のために作成された作戦用図、③城下町を経営する目的で藩士や町人の屋敷割を示すために作成された屋敷割図、④城下町の街区・街路を改造することを計画して作成された都市改造計画用図、⑤城下の町支配・運営のため町政用図に細分することが可能である。 本図は弘前城下の街路を描いた絵図で、裏面に「弘前惣絵図」という題箋が貼付してある。天和3年(1683)に岩木川が駒越川(こまごしかわ)に一本化されて以降の流路(すなわち、現在の流路)が描かれているため、時期としてはそれ以降のものと考えられる。一方、屋敷割や町名・地名や居住者・寺社名などについての記載は一切ない。例えば寛文13年(1673)に作成された「弘前中惣屋敷絵図」(別稿参照)や延宝5年(1677)から元禄15年(1702)までの変化が貼り紙で示されている「弘前惣御絵図」(別稿参照)に描かれている街区と本絵図のそれとを比較すると、この絵図に描かれた街路には、実際の街路と大きく異なる部分がある。本絵図をよく見ると、実際の道筋の上から紙が貼られていることがわかる。つまり、弘前城下の現実を描いた絵図ではないのである。なぜこのような絵図が作成されたのか、目的が詳らかではない。弘前藩に弘前城下を改変しようとする動きが存在し、その計画用図として描かれたものなのであろうか。 史料的にも製作目的が一切わからない本絵図について、解題を書くのは極めて困難なことである。まずは本館にかような絵図があるということを紹介し、作成の経緯や目的についての考察については、今後の研究に委ねることにしたい。 上のような経緯から、ここでは、弘前城下の形成過程について触れておく。読者各位にはこれを諒とされたい。 慶長8年(1603)、津軽為信(つがるためのぶ)は高岡(たかおか)(のちの弘前)に町屋を取り建てるよう命じた。その子信枚(のぶひら)は慶長15年(1610)同地に築城を始め、翌年に竣工した。そのころに城下町もほぼ完成したとされる(「津軽一統志」)。 弘前城下を描いた最も古い絵図は、寛永(1624~1644)末年頃と推定されている「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)と幕府に提出された「正保城絵図(しょうほうしろえず)」に含まれる「津軽弘前城之絵図」(国立公文書館蔵)であり、前者は後者の下書きとして描かれ、控図とされたものと考えられる。ここに描かれている城下は西に岩木川(いわきがわ)、東に土淵川(つちぶちがわ)、南に南溜池(みなみためいけ)、北は町割りの境となる大久保堰の南に足軽や武家奉公人が居住する足軽町・歩者町(かちまち)(現若党町(わかどうちょう))、小人町(こびとちょう)が置かれて、それぞれ防御線としている。防御線の周縁には城の北東に八幡宮(はちまんぐう)(現弘前八幡宮)、熊野宮(くまのぐう)(現熊野奥照神社(くまのおくてるじんじゃ))、城北に伊勢大神宮(いせだいじんぐう)(現神明宮)、城東に東照宮(とうしょうぐう)、城西に誓願寺(せいがんじ)、城南に大円寺(だいえんじ)(現在の最勝院(さいしょういん)の地)や、領内各所から集めた曹洞宗(そうとうしゅう)寺院を配置した長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)を置いている。八幡宮と神明宮は大久保堰を堀とし、東照宮は土淵川・二階堰と堀に囲まれ、いずれも境内地の周囲に土塁が廻らされている。北は斜面、南は寺沢川が流れる台地上に配置された長勝寺構は入口となる東側に大規模な土塁を築いて桝形を置いている。これらの寺社の備えからそれぞれが防御の拠点であったことがわかる。武家町は城内の三の郭、四の郭、西外の郭の他、城の周囲と城下町の周縁に配され、その他が町人町となっている。 弘前の城下町に最初の大きな変化が見られるのは慶安3年(1650)である。前年5月3日に浄土真宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗の各寺院が集まる寺町で火災が発生した(寺町大火)ことを契機に、この年、南溜池の南側の高台に新寺町(しんてらまち)が形成され、寺町にあった寺院が移転した。焼けた寺町の跡地には新たに元寺町(もとてらまち)が町割りされた。 次の変化は、岩木川の流路変更と、城内に存在した侍屋敷を郭の外に移転させたことに伴う変化である。延宝年間(1673~1681)から元禄年間(1688~1704)にかけて、鳥井野村(とりいのむら)(現弘前市大字鳥井野)付近で駒越川と樋ノ口川(ひのくちがわ)の二筋に分かれていた岩木川を掘り替えて、現在の流路である駒越川に一本化された。流路が城の西側に移されたことにより、弘前城の西側の町割が進み、駒越町・西大工町・平岡町などの町が作られた(「弘前惣御絵図」)。一方、元禄8年(1695)の大飢饉によって弘前藩の藩財政は窮乏し、翌9年に藩士が大量に召し放ち(解雇)された。これを契機に城内に住んでいた家臣団がこれらの空いた侍屋敷に移され、侍屋敷の郭外移転が本格化した。宝永2年(1705)には、三の郭に残っていた侍屋敷がすべて郭外に移転し、重臣の邸宅が白銀町(しろがねちょう)・大浦町(おおうらまち)などに移動した。一方、城内は藩政諸機関の御用地となった。当初は土淵川を境としていた城下の東側では、従来町人町の間にあった田地が武家町となった。 寛政4年(1792)に藩士および藩財政の困窮を解決する方策として、藩士に在方土着令が出され、多くの藩士が農村に移住したため、城下の侍屋敷が空き家となり、「御家中潰町」が多数城下に出現した。しかしその後、寛政10年(1798)の土着令の廃止により藩士が戻り、侍町が復活した。弘前の城下町はこの18世紀中期~後期の状況からは大きな変化を遂げずに、再び藩士が藩によって帰農を促される明治4年(1871)前後まで、基本的にその姿を継続させたと考えられている。(千葉一大) 【参考文献】 乕尾俊哉監修『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年) 長谷川成一「弘前城下について」(津軽近世史料刊行会編集・長谷川成一編『津軽近世史料1 弘前城下史料 上』北方新社、1986年) 横尾実「弘前の都市構造への歴史的制約」(『東北地理』39、1987年) 今井敏信「津軽の中核都市「弘前」」(山田安彦・山崎謹哉編『歴史のふるい都市群④─東北地方日本海側・北海道の都市─』大明堂、1990年) 杉本史子・礒永和貴・小野寺淳・ロナルド・トビ・中野等・平井正午編『絵図学入門』(東京大学出版会、2011年)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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弘前図書館
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原資料の所在地
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弘前図書館
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資料番号
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管理記号
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M56
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カテゴリ区分
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静止画
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資料種別
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絵図
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資料分類(大分類)
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津軽家文書
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資料分類(中分類)
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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