解題・説明
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天保元(1830)年8月16日、降り続く大雨によって岩木川は未曾有の大洪水となり、城下の下町一円は浸水し、被害は城内にも及んだ。本史料「弘前藩庁日記(国日記)天保2年2月」の2月15日条によれば、開発田方の被害も大きく、開発方収蔵米については去秋分の免除と、当秋分の明春までの延期願いが勘定奉行から出されている程であった。 また、洪水の被害が城内にも及んだことから、破損箇所の修復が必要となっていた。城郭の修復については幕府の許可が必要であることから、同年2月2日、老中水野出羽守忠成に届書を差し出している。但し、本史料2月19日条には、「御国許去八月十六日洪水ニ而田畑損毛之儀」を2日に水野に別紙の通り提出したとのみ記されており、城郭の破損や修補についての記載は無い。この届書が城郭の修補伺であったこと(あるいは洪水被害状況の報告とともに提出されたこと)は、翌3月の国日記3月20日条で知ることができる。 本史料2月2日以降の城郭補修の経緯については、城郭補修資料「弘前藩庁日記(国日記)天保2年3月20日」の3月20日条の記載、及び解題・説明を参照されたい。(瀧本壽史)
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