解題・説明
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弘前藩では嘉永3(1850)年7月19日、弘前城二之郭坤(未申)の櫓台の石垣1ヶ所の孕みを元通りに築き直したいこと、及び同所の大破した櫓を修復したいことについて、留守居北川六左衛門をもって、月番老中牧野備前守忠雅に絵図面を添えて伺いを立てている。城郭の修補には幕府の許可が必要とされていたからであり、既定の手続きであった。7月25日付で許可する旨の老中連署奉書が、翌26日に牧野備前守宅で下付されている。 この申請から許可に至る流れと内容については、城郭補修資料「弘前藩庁日記(国日記)嘉永3年9月2日」の国日記9月2日条にまとめて記載されているので、解題・説明とともに参照されたい。 なお、本史料「弘前藩庁日記(国日記)嘉永3年7月」には石垣や櫓の修復に関する記載は見当たらない。7月20日条に「御簾中様(徳川家定室澄心院)御逝去」により、普請は7月28日まで、鳴物は8月3日まで禁止する旨の触れが出されていることが見えるので、このことと関係しているのかもしれない。また、修補伺いからわずか7日後に老中連署奉書が下付されたのは、本史料にも多く記載されているように、緊迫した沿岸警備の状況が背景にあったと考えられる。この年、津軽海峡を通過した異国船は37から38艘にも及んでおり、城郭の整備、特に櫓の修復などは、弘前藩のみならず幕府においても迅速な対応が求められていたのである。(瀧本壽史)
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