解題・説明
|
対額 年代:萬延元(1860)年 雲溪八十一歳 大きさ:159×180 山本雲溪:文久元(1861)年没 山本雲溪は越智郡大井村に生る。幼名を雲平と称し、邑清と号す。祖は河野氏。父平治右衛門大井村の里正たりしが、今治風早町に移居、醫を以て藩に仕う。雲溪後浪速に遊び画を森狙仙に学ぶ。帰来藩の絵師となる。特に動物画に長じ師狙仙の筆と酷似す。人となり恬淡、磊落、言動常人の意表に出ず。沖冠岳も其の始は雲溪を師とす。画室を月光堂と呼び頼山陽とも交あり。讃岐琴平神社奉納の大額をはじめ、厳島及附近社寺には其の大作尠なからず。文久元年五月二十八日歿す。年八十二、今治市北新町神供寺に葬る(昭和六年十二月 日吉観音寺に改葬)「壽照雲溪居士」と諡す。二男四女あり。松柏醫を以て家を継ぎ、画家玉仙女史は分家し、他は皆夭折す。号は雲溪のほか、好徳、月峯斎、雲平、邑清、月峯主人、月光堂などがある。 山本玉仙(英):玉仙は天保十二年九月十五日に雲溪の末女として生まれ、名を節といった。清月亭、清月園を号とし、父に画法を学んで画技に長じ、明治四十年六十七歳で没した。画は親しく父の指導を受け、生花は父及兄の松柏に習い、茶道は丹下喜太夫に就て、石州流を学び、生花は青山流であって其技妙絶、慶応元年(二十八歳)召されて藩主久松定弘に生花を教授した程である。明治三十年十二月、其家元より、青山御流生花大日本総会頭たるの允可を受けた。明治三十年九月、図画教師として県立今治高等女学校に聘せられ、数年其職を奉じた。玉仙は今治の人佐伯惟政(神職)に嫁し、二男を挙げたが、後故あって実家に帰り、再び山本氏を冒した。初め、天保山墓地に葬ったが、後改葬して、今治市営大谷墓地に移した。 参考文献:【「今治地方の絵馬」矢野徹志著『今治史談 昭和52年10月2日』今治史談会発行】【『政治経済と教育 資料集 近・現代Ⅰ 今治郷土史 第六巻』今治郷土史編さん委員会編 今治市役所発行 平成2年】【『絵馬より見た今治藩絵師山本雲溪』近藤福太郎編 大西史談会発行 1998年】【『小児科の名医猿画の大家 山本雲溪』秋山英一著 「雲溪伝」刊行会 昭和36年】 高部厳島神社:今治市高部字家ノ下甲837番地
|