【日本協会への加盟と現況】
日本協会に新しい仲間が参加した。その友人とは日本女子ラグビー連盟(以後日女連)である。2002(平成14)年4月1日、日本協会ジャパンクラブで協会側から日本協会会長町井徹郎、関東協会理事長貴島健治、日女連側から専務理事岸田則子が出席。女子ラグビー連盟の日本協会加盟が正式に決定し、ただちに報道関係にも発表された。今後は従来の日女連の形を維持しながら日本協会クラブ委員会とともに女子ラグビーの普及発展めざして活動を継続していくという。席上、町井徹郎会長が「日本ラグビーが愛され、親しまれるために努力をしている。女子ラグビーもラグビー発展のためひとつの力になってもらいたい」と期待を込めたあいさつ。岸田則子専務理事も「日本ラグビーのために少しでも力になれたら…」とエールを返して、ともに未来への発展を誓いあった。
日本女子連盟ではこの日の正式発表に先立ち、「女子ラグビーの日本協会加盟」と「第4回ワールドカップ出場」を記念する東西選抜対抗試合を3月17日に秩父宮ラグビー場で開催。女性とは思えないハイレベルの試合を展開してスタンドの観衆を湧かせたが、文部科学省遠山敦子大臣もかけつけ、熱戦に声援を送っていた。秩父宮ラグビー場に女子ラグビーが登場したのはこの試合が史上初めてのこと。またタイトルにもあるようにこの年の5月、スペインで開かれる第4回女子ワールドカップの代表選考試合でもあった。
第4回W杯では女子代表のヘッドコーチに神戸製鋼前監督萩本光威(後の日本代表監督)が就任するなど、大会でのトップ10入りが期待されたが、残念ながら力及ばず第3戦のオランダに37−3で勝っただけ。スペイン、イタリア、アイルランドにいずれも大差で敗れて上位進出はならなかった。ただ、この大会1勝を含めてW杯3大会出場(第3回オランダ大会は予選敗退)で2勝は立派なもの。日本協会機関誌「RUGBY」に掲載された萩本レポートによると、①9~16位のチームは実力伯仲で、強化しだいでは日本女子のトップ10入りも可能②体格に劣る日本女子ではあるが、はじめの当たりが弱くても、その後の押しを続ける運動量の多いほうが有利という点を勘案すれば可能性はある─と分析。さらに問題点として「海外の女子チームは、シックスネーションズ、代表遠征など国際試合の大会が多いが、日本はその機会が少なく、その経験の差が勝敗を決する場面で現れていたのは大きな問題である」とスペイン大会を総括している。
ところで、5回目を迎える「女子ワールドカップ2006」は、8月から9月にかけてカナダ中部の都市エドモントンで開かれるが、そのアジア予選が2005(平成17)年6月、タイのスパンブリ─で開催された。日本女子は初戦(6月3日)の対香港戦を78−0の大差で破り、同じく開催国タイに67−0のスコアで勝ったカザフスタンと、2日後の5日にアジア地区の本大会出場権をかけて雌雄を決することとなった。第4回W杯での成績でもカザフスタンは日本の14位を上回る11位と日本女子を凌ぐ成績をあげている。記録のうえではともかく、必勝を期した日本代表ではあったが、やはり結果は3−19のスコアで敗れ、惜しくも2大会連続4回目の本大会出場はならなかった。浅見敬子主将は日本協会機関誌に「…トライになるパスが2本とも笛。そしてペナルティーの連続。前に進めない。押される。修正できない…」(要旨)と敗因を綴っているが、最後に「…今回の敗戦を各選手が真摯に受け止め、更に強い日本代表になるよう、そして女子ラグビーが発展するよう、選手一同努めていきます」と、力強い決意の表明で手記を結んでいる。日本女子ラグビーのさらなる前進を期待したい。
【日本女子ラグビー発祥とその歩み】
日本の女子ラグビー発祥は1983(昭和58)年ごろというのが定説となっている。それ以前にも大阪や東北でラグビースクールに子どもを通わせているお母さんたちが一緒になってプレーしていたことを、事実として伝え聞いているが、女性たちが本格的に競技としてのラグビーを始めたのは1983(昭和58)年で、東京、名古屋、松阪でほぼ同時にチームが誕生している。それまでラグビーという競技は男性社会のスポーツという認識が一般的であったが、女子ラグビーの出現はこうした旧来の概念を一変してしまった。もっとも日本では唯一の公式機関である日本協会への加盟に15年の歳月を要しはしたものの、これで女子ラグビーも財団法人日本協会の一員になったわけで、スポーツ団体として社会的にその存在が認められたことにもなる。日女連専務理事岸田則子が加盟直後の日本協会機関誌に寄せた一文を要旨にまとめて、苦労の多かった女子ラグビーの歴史を紹介させていただく。
「…15年前、日本女子ラグビーフットボール連盟の設立に関わったのは、当時、世田谷レディースに所属していた、川口敬子、大嶋栄、増岡文子(現姓上條)、そして私の4名でした。
資金もなく、組織についても経営学でほんの少し勉強したに過ぎない右も左もわからない素人の集まりでしたが、女子ラグビーの底辺を広げ、大会を開催したい意欲だけはありました。
しかし、いくら小さな組織とはいえ、資金がなくては存続は難しい。資金を作りながら、細々と、しかし世界への進出を図りながら、また、女性レフリーやコーチの育成もしながらの14年間でした…」(日本協会機関誌から)
さらに岸田レポートは①連盟設立まで(1983〜1988) ②日本協会の関連団体として認められるまで(1988〜1993) ③国際交流が盛んになった時期(1994〜1998) ④ワールドカップ出場まで(1998〜2002)と、年代を4期に分けて記しているが、それぞれの項目に共通して流れるのは、苦労の中から汲み出す明日への活力とでもいうか、不退転の決意だろう。その意味で岸田原稿は106年前の慶應ラグビー草創の時を思い起こさせる。「用具の調達から横浜や神戸への遠征費など、ラグビーをエンジョイするための経費はすべて個人の負担。それでも草創期の先人たちは情熱を燃やしつづけて、発祥から4年後に念願の体育会加盟を勝ち取った」と伝える慶應ラグビー百年史の記述がそれ。そして草創の苦労は慶應だけではない。早稲田にしてもラグビー部が創部から正式な対外試合に漕ぎつけるまで4年という歳月を要している。確かに女子ラグビーの15年という苦渋の期間は長かったが、それだけに日本協会への加盟をジャンピングボードに今後の飛躍が大いに望まれる。加えて特筆しておきたいのは、日女連専務理事岸田則子が2001年〜2002年と2年間にわたってIRBのウィメンズ・アドバイザリー・コミッティー委員として国際的に活躍していたこと。日本では関係者の間でしか知られていなかったが、この事実は日本の女子ラグビーが日本協会加盟以前、すでに国際的な評価をうけていたことの証しでもあり、専務理事岸田則子によると「カナダの委員が私をIRBに推薦してくれた」とのこと。国際的な実績という点でも日本の女子ラグビーは着々とその地歩を固めつつあるというのが現状である。
なお、近年の活動は15人制国際大会の参加、選手強化にとどまらず、香港7人制大会への参加や、女子レフリーの育成など多岐にわたっており、選手層も幼稚園児から50代まで1000人を数えるという。
【日本女子代表とワールドカップ】
◆第1回大会
1991(平成3)年4月6日から14日までの9日間、ウェールズで日本など12カ国が参加して開かれた。日本女子代表は予選リーグでフランス、スウェーデンと対戦して2敗。このあと敗者復活戦でもスペインに敗れ、結局、ワールドカップ初参加は3戦全敗で終った。
◆第2回大会
1994(平成6)年4月11日から24日までの14日間、スコットランドで日本など12カ国が参加して開かれた。日本女子代表はスウェーデンに初の1勝を記録したが、米国、フランス、カナダ、アイルランドに敗れて上位進出はならなかった。
◆第3回大会
この大会(1998年)から世界のラグビー統括機関であるIRB(国際ラグビー評議会)の主催となり、参加資格の基準も改められた。日本の場合は国際試合(テストマッチ)の資料に乏しいという理由だけで出場が認められず、ワールドカップ3大会連続出場の夢は絶たれてしまった。
◆第4回大会
2002(平成14)年5月12日から25日までの14日間、スペインで日本など16カ国が参加して開幕。2大会ぶりの出場となる日本女子代表にとっても日本協会加盟初の記念すべき大会ではあったが、オランダに勝っただけ。スペイン、イタリア、アイルランドのヨーロッパ勢の壁を崩せなかった。しかし、第2回大会の1勝を加えてワールドカップ2勝は男子の日本代表を上回る記録。
〔第4回スペイン大会の最終順位〕
①ニュージーランド②イングランド
③フランス④カナダ⑤オーストラリア
⑥スコットランド⑦米国⑧スペイン
⑨サモア⑩ウェールズ⑪カザフスタン
⑫イタリア⑬アイルランド⑭日本
⑮オランダ⑯ドイツ