《タイ国の提唱で始まったアジア大会》


 アジアラグビー選手権大会がスタートしたのは1969(昭和44)年3月となっている。タイのIOC(国際オリンピック委員会)委員で、同国ラグビー協会会長チャロック・クマラクールの提唱によるもので、まずアジア・ラグビー協会(ARFU)が前年の1968年12月15日の創立総会で誕生。ARFU初代会長に日本協会会長代行湯川正夫、書記長兼会計役に金野滋が選出された。憲章によると、大会は2年間隔で開かれることになっており、その第1回大会開催国に日本の東京が選ばれ、秩父宮ラグビー場を舞台に、3月8日から16日までの9日間にわたって開催。参加国は日本はじめタイ香港韓国の4カ国で、3戦全勝の日本が初代チャンピオンに輝いた。
写真・図表
第1回アジア大会の開会式で勢揃いした開催国日本の役員スタッフ(秩父宮ラグビー場)

 第2回大会はアジア選手権開催の提唱国タイのバンコクで1月10日から18日まで開かれたが、日本にとっては国内最高の大会である第7回日本選手権(1月15日)とアジア選手権の日程が重なる大きな問題に直面することとなってしまった。日本代表の主力を形成するのは、社会人大会優勝の近鉄であり、準優勝のトヨタ自動車の選手たちである。まず近鉄日本選手権出場を辞退。近鉄に代わる準優勝のトヨタ自動車も日本選手権への出場をあきらめ、結局、この年度の社会人代表はベスト・4の富士鉄釜石となった。アジア選手権1月開催の理由は、同じタイで総合大会のアジア競技大会開催との重複をさけるための措置。日本としては立ち上げたばかりのアジア選手権でもあり、国際関係重視の選択肢以外に方法はなかったということでもある。その点を日本協会機関誌は「…アジアラグビーのリーダーシップをとる日本チームはベストメンバーを編成、…」と簡単に報じているが、この問題の結末は、日本代表のアジア選手権2連勝を「明」とするなら、「暗」は社会人代表の代役をつとめた富士製鉄釜石が13-29で日体大に敗れていることだろう。
 第4回選手権(スリランカ)の年、すなわち1974(昭和49)年度には初めて協会代表チームの強化を担当する委員会が日本協会に設けられ、岡仁詩が初代委員長に就任した。委員には第4回大会の日本選手団長斎藤寮をはじめ日比野弘、宮地克実、宮島欣一、大久保吉則、横井久、土屋俊明ら日本ラグビーのそうそうたる中堅どころが名を連ねている。1974年度といえば、4月から5月にかけて第2次NZ遠征で初めて日本代表がNZU(NZ大学選抜)を破った年でもあり、強化委員会新設はアジア選手権での連覇を土台に、世界へのさらなる飛躍を目指そうという日本協会の固い決意が垣間見えてくる。
 もちろん第5回アジア選手権(韓国・ソウル)でも日本代表は優勝して、大会5連覇達成チームに贈られる優勝カップを永久獲得。さらに再度の5連覇で新しい優勝杯の獲得を目指して発進したが、1982(昭和57)年11月の第8回選手権(シンガポール)の決勝で韓国に初めて敗れ、その夢は潰えてしまった。試合は後半韓国に追い上げられて9-9のタイスコアでタイムアップ。そのあと10分ハーフの延長戦にもつれ込んだが、その後半6分、韓国に痛恨のDGを決められて万事休した。日本選手団団長の小林忠郎が日本協会機関誌に「…試合内容は完敗であった。実に惨めな敗北であった。完全な、総力を挙げたデイフェンス態勢で日本に対した韓国は勝つと言うことより点を取られない作戦だったと思われる。従ってタックルは一発で決める。日本のミスはことごとくカウンターアタック。韓国の3PG、1DGの原因は日本のバックラインのサインプレーのパスミス、キャッチングミスをついたものである。…」(要旨)。
 韓国に連覇を断ちきられた日本ではあったが、第9回大会の開催国は9年ぶり2度目の日本である。かねてから「アジア選手権の開催を希望」(九州協会書記長守田基定)していた九州の福岡市平和台競技場、春日市春日球技場の2会場で開かれた。参加国は日本など8カ国。このため前回優勝の韓国はA、準優勝の日本はBグループと予選リーグを各4カ国ずつに振り分け、決勝は両グループ1位同士で争う方式がとられた。もちろん決勝は予想通り3戦全勝同士の韓国日本の対決となったが、守田基定によると「…韓国の捨て身のタックル。こぼれ球に対する速い動き。これをはねかえしたのが日本の強烈なFWの押しだった…」(日本協会機関誌)とあり、20-13で日本が2大会ぶりに王座奪回に成功した。8度目の優勝を飾った日本選手団の団長は岡仁詩、監督は宮地克実の同志社コンビだった。
 しかし、この優勝奪回は日本にとって再生のカンフル剤とならなかった。第10回(タイ・バンコク)、第11回(シンガポール)、そして第12回(スリランカ・コロンボ)と3大会連続の決勝対決で韓国の軍門に降ることとなる。3大会とも22-24、13-17、9-13とすべて小差の敗戦。日本代表にとっては6年という長い冬の時代がつづいたわけだが、第11回大会の日本代表チーム監督日比野弘は敗因として①情報不足②ゲーム経験の不足③国内スケジュール重視の影響④ハングリー精神の欠如⑤ラグビーは組織の格闘球技の5点をあげた。
 第10回大会が1986(昭和61)年、第11回大会が1988(昭和63)年開催ということは、ちょうど第1回W杯開催年の前後にあたる。当時の日本ラグビー界周辺を振り返ってみると、日本協会の内も外も意識はW杯のほうに向き、アジア選手権は二義的存在となっていたようにおもわれるがどうだろう。内とはもちろん日本協会を、そして外とはメディアであり、世間を指すわけではあるが、その点、W杯出場が適わなかった韓国には、アジア選手権一本にしぼれる、日本の状況とは逆の立場が指摘できる。
 第13回大会(1992年9月、韓国・ソウル)は波乱の選手権となった。開催国の韓国が地元ソウルで予選グループの香港戦を落として、決勝はBグループ1位の日本香港の対決という第3回大会以来、20年ぶりの顔合わせとなり、日本が37-9の大差で王座を奪還。4大会ぶり9度目の優勝をとげたが、次の第14回大会(1994年10月、マレーシア)と第16回大会(1998年10月)はともにW杯のアジア地区最終予選を兼ねることになり、日本としては、W杯編成のメンバーで、この1点に集中できる利点となった。もちろん両大会とも日本はW杯への出場権とアジア大会優勝の両手に花といったところ。第15回大会(1996年11月、台北)、第17回大会(2000年6月、青森)の優勝も含めて5連勝、12度目の優勝を飾ることになった。
 しかし、日本協会が2001年にオープン化を宣言。これにともない2002年11月にタイ・バンコクで開かれたアジア選手権から日本代表に代わって日本選抜が出場。この大会では韓国が22-20の2点差で日本選抜を破って優勝。一昨年の第19回大会(2004年10月、香港)では日本選抜が決勝で韓国を29-0と完勝。日本に2大会ぶりの優勝をもたらしている。アジア選手権大会の37年に及ぶ長い歴史は、また日本韓国の対決の歴史といってもよいが、少なくとも第19回大会の日本選抜との結果をみるかぎり、日本ラグビーがアジア地区では一歩抜け出たようにも思われるが早計だろうか。かつて1974(昭和49)年の第4回セイロン大会を前に日本選手団長が、壮行会で「イングランドやNZへ行くより気が重い。何故ならアジア大会はアジアのリーダーである日本を目標に『打倒日本』であたってくるだろうし、下手なプレーをすれば、ラグビー日本の名にかかわる」と心の内を語っているが、暗黙のうちにアジア大会での常勝を求められていた当時の日本協会首脳たちすべての思いを代弁した言葉でもあった。いずれにしても8連覇が断たれて以後は日本のラグビー界のどこかに有形、無形の圧迫感となってつづいていたようだが、そうした心理的呪縛も日本選抜の快勝が解きほぐしてくれたともいえる。
 そのほか、アジア関係の大会としてはアジア競技連盟(AGF)が主催するアジア競技大会(総合大会)、日韓定期戦(今年度は第8回)、アジア3カ国対抗(日本韓国台湾)など日程も過密化してきた。これに加えて4年に一度、ワールドカップ・アジア予選がこれらの大会にからんでくるので、日本韓国の対戦の場合は日韓定期戦を兼ねて行われる。2005年度の場合はその好例といえるが、またラグビーのアジア選手権などは日本代表に代わって日本選抜が出場するようになった。この点についてはアジア選手権の項で前述しておいた。
アジア・ラグビーフットボール選手権大会と日本代表
《第1回・1969年3月8日〜16日:東京・秩父宮》
日本82−8タイ
日本24−22香港
日本23−5韓国
(日本が3戦全勝で初代チャンピオンとなる)
《第2回・1970年1月10日〜18日:タイ・バンコク》
〔予選=Aグループ〕
日本46−17シンガポール●
日本23−9韓国
〔決勝〕
日本42−11タイ
(日本はBグループ1位のタイに快勝。2連覇なる)
《第3回・1972年11月3日〜12日:香港
〔予選=Aグループ〕
日本60−4シンガポール●
日本51−0スリランカ
日本40−0マレーシア●
〔決勝戦〕
日本16−0香港
(日本は予選を全勝で通過。決勝でBグループ1位の香港に快勝して3連覇達成)
《第4回・1974年11月16日〜23日:スリランカ・コロンボ》
〔予選グループ〕
日本20−7韓国
日本46−6タイ
日本30−18香港
〔決勝戦〕
日本44−3スリランカ
(日本は4連勝)
《第5回・1976年11月12日〜20日:韓国・ソウル》
日本42−6台湾
(注)参加国が5カ国のため総当り形式
日本95−3マレーシア●
日本46−9タイ
日本11−3韓国
(日本は4戦全勝で大会5連勝。日本の失点21点はすべてPGによるもの)
《第6回・1978年11月18日〜25日:マレーシア・クアラルンプール》
〔予選=Aグループ〕
日本47−18タイ
日本34−8スリランカ
〔決勝戦〕
日本16−4韓国
(決勝は2年連続で韓国戦となっつたが、韓国の反撃を1トライに抑えて日本が6連勝)
《第7回・1980年11月8日〜16日:台湾・台北》
日本91−3マレーシア●
日本108−0スリランカ
日本45−6香港
日本21−12韓国●(決勝戦)
(今回にかぎり台北市協会が主管となったため大会では都市名が使用されたが、80年史の記述は従来通り国名とした)
《第8回・1982年11月20日〜27日:シンガポール》
〔Aグループ〕
日本29−0香港
日本31−6台湾
日本43−6タイ
〔決勝戦〕
日本9−12韓国
(9−9の同点でノーサイド。10分ハーフの延長戦で、後半6分、韓国にDGを決められ、日本の8連覇ならず)
《第9回・1984年10月21日〜27日:日本・福岡市》
〔Bグループ〕
日本54−0香港
日本44−4中華台北●
日本84−6シンガポール●
〔決勝戦〕
日本20−13韓国
(日本が前大会の雪辱をとげ、2年ぶり8度目の優勝)
《第10回・1986年11月22日〜29日:タイ・バンコク》
日本64−0スリランカ
日本10−4台湾台北●
日本82−6マレーシア●
〔決勝戦〕
日本22−24韓国
(日本の2連勝9度目の優勝を韓国に2点差で阻まれる)
《第11回・1988年11月12日〜19日:香港
日本82−0シンガポール●
日本108−7タイ
日本20−19台湾
〔決勝戦〕
日本13−17韓国
(日本は決勝戦で2年連続で韓国に敗退)
《第12回・1990年10月20日〜27日:スリランカ・コロンボ》
〔Bグループ〕
日本45−3マレーシア●
日本66−15タイ
日本80−3シンガポール●
〔決勝戦〕
日本9−13韓国
(日本は決勝戦で韓国に3連敗)
《第13回・1992年9月19日〜26日:韓国・ソウル》
〔Bグループ〕
日本120−3シンガポール●
日本89−3スリランカ
日本16−6台湾台北●
〔決勝戦〕
日本37−9香港
(日本は4大会ぶり9度目の優勝)
《第14回・兼第3回W杯アジア地区予選・1994年10月22日〜29日:マレーシア》
〔Aグループ〕
日本56−5中華台北●
日本67−3スリランカ
日本97−9マレーシア●
〔決勝戦〕
日本26−11韓国
(日本は2連勝10度目の優勝とともに第3回W杯アジア地区出場権を獲得する)
《第15回・1996年11月2日〜9日:台湾・台北》
〔Aグループ〕
日本141−10タイ
日本101−12台北●
〔決勝戦〕
日本41−25韓国
(日本は3連勝11度目の優勝)
《第16回・兼第4回W杯アジア地区最終予選・1998年10月24日〜31日:シンガポール》
日本40−12韓国
日本134−6中華台北●
日本47−7香港
(この結果、日本は3戦全勝の勝ち点9で1位となり、4大会連続のW杯出場が決定)
《第17回・2000年6月23日〜7月2日:日本・青森》
日本75−0香港
日本55−12中華台北●
日本34−29韓国
(日本は5連勝、12度目の優勝)
《第18回・2002年11月16日〜23日:タイ・バンコク》
〔ディビジョン1〕   「ARFUランキング」
日本選抜29−15香港●      ①韓国
日本選抜44−17中華台北●  ②日本選抜
日本選抜20−22韓国○      ③香港
               ④中華台北
(注①)日本代表に代わって日本選抜が出場
(注②)「ディビジョン1」=日本韓国香港、中華台北
 「ディビジョン2」=インド、カザフスタン、スリランカタイ、アラビアンガルフ、マレーシア、シンガポール
《第19回・2004年10月27日〜31日:香港
〔準決勝〕
日本選抜40−12香港
〔決勝〕
日本選抜29−0韓国
(日本は2大会ぶりの優勝)