強化の変遷と考察

 
 私がラグビーのコーチングに関わるようになったのは、早大ラグビー部が初めて二部落ちを経験した昭和37年(1962)春、27歳のときであった。早大は部の再建を大西鐵之祐監督に託した。東横百貨店を退社して家業に戻った私に、コーチの要請があった。大西さんにすれば時間が取れるようになった私に手伝わせれば、猫の手を借りるよりはましだと思ったのだろう。私は部員と一緒に練習をして励ますだけの役割だったが、このとき多くのことを学んだ。その後の私のコーチング哲学となったものは、「選手に見返りを求めるな。一方的な片思いの愛情を注いでやってくれ」との大西さんの一言だった。「俺がこれだけ自分の時間を犠牲にして頑張っているのに、おまえは何をしているんだ」と選手を責めず、選手がまずいプレーをしたときには、自分のコーチング能力の至らなさを恥じろ」という教えであった。私はコーチとしてさしたることができなかったが、この哲学だけは忘れずに選手を指導してきた。この結果、私のコーチングは「勝敗の結果はすべて監督の責任」という哲学に導かれた。選手は皆試合に出たい、勝ちたいという思いで1年間努力している。メンバー選考を任されている監督は、選手たちの負託に応えなければならない。「選手の自主性に任せるというのは、監督の責任回避になる」ということが、私のコーチング哲学である。
 大西監督はこの年、木本建治主将と部員たちに「こうすれば勝てる」という理論を明確に示すコーチングで、選手の心をつかみ自信を回復させ、全勝で一部へ復帰するだけでなく、対抗戦優勝の明大をも破ってみせた。私がそのコーチングに感服し、傾倒したのは当然の成り行きだった。
 その後OBクラブの会計幹事を務めていた私に、監督の任が回ってきたのは、昭和45年(1970)3月、私が36歳のときだ。大東和美主将、小林正幸副主将ら、人材に恵まれていたこの年に、早大は対抗戦に全勝を果たし、日本選手権試合で新日鉄釜石を下して日本一の栄冠に輝いた。
 指導力がなくても結果が伴えば評価されるのがコーチである。私はおかげで過大評価された感がある。対抗戦60連勝を達成した早大の強い時代に、計4シーズン監督を務めた私は、昭和51年(1976)4月、42歳の年に日本協会強化委員会の委員を命ぜられた。その後強化委員長、監督、コーチなどを歴任、日本代表理事になったあとも、コーチ委員長、レフリー委員長、普及指導委員長、など一貫して強化・育成畑を歩んできた。
 本章には、強化に携わってきた一人として、私の見た日本代表チームのコーチングの流れを書き留めておくことにする。
 ここに記す内容は、日本代表の成績がはかどらなかった責任を回避するものでもない。努力してこられた方々を非難するものでもない。ただ私はこう感じ、こう思ったというだけである。ご批判はいかようにも受け止めるつもりである。