上ノ国町史年表

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No 年月日 西暦 おもなできごと
1 50万年前 夜明けの塔付近の平坦面(海成段丘)が形成される。
2 40万年前 勝山館跡の平坦面(海成段丘)が形成される。
3 12万年前 道の駅もんじゅ付近の平坦面(海成段丘)が形成される。
4 2万年前 石器を使う人が住んでいた(旧石器時代)。
5 9千年前 道の駅もんじゅ付近に土器を使う人たちが暮らしはじめる(縄文時代早期)
6 6千年前 気候が温暖化して、海水面が現在より50~100㎝上昇した(縄文海進)。勝山館で縄文時代の人たちが暮らしていた(縄文時代前期)。
7 4千5百年前 勝山館やお浪沢B遺跡などで縄文時代の人たちが暮らしていた(縄文時代中期)
8 3千5百年前 大岱遺跡や上ノ国市街地遺跡などで縄文時代の人たちが暮らしていた(縄文時代後期)
9 2千5百年前 上ノ国市街地遺跡などで縄文時代の人たちが暮らしていた(縄文時代晩期)
10 2千年前 上ノ国市街地遺跡などで続縄文時代の人たちが暮らしていた(続縄文時代)
11 千年前 1000 擦文土器や五所川原で焼かれた須恵器を使う人たちが暮らしていた。
12 康平3年 1060 大野村意富比神社鰐口、銘「康平三年卯月八日、肥前国住人願主四郎五郎、大工若州遠敷郡宗行」(蝦夷の手布利後篇所収)
13 文治5年 1189 源頼朝が奥州の藤原泰衝を追討し、糠部・津軽の人々が多数夷島(えぞがしま)に逃げ渡り居住する。
14 建保4年 1216 鎌倉幕府が、強盗海賊のるい50余名を蝦夷島に追放した。
15 弘安末年 1278~
1287
津軽の安東氏十三湊に拠る。(安東氏が上ノ国・下ノ国の両氏に別れた。)これから蝦夷島に出入りした形跡がある。
16 永享4年 1432 蝦夷管領下国安東盛季、南部氏に十三湊の居館を陥され、夷島(北海道)へ渡海する。
17 嘉吉2年 1442 安藤氏が再び南部氏との戦いに敗れ、翌年に夷島(北海道)へ渡海する。
18 嘉吉3年 1443 小山隆政渡道し、上ノ国花見岱の館によるという。真言宗上國寺草創すという。
19 寶徳3年8月28日 1451/8/28 新羅氏若析狹守信廣相従 佐々木三郎兵衞尉繁綱・工藤九郎左衞尉祐長 二人自田名部渡松前、此時安東太政季・相原周防守政胤・河野加賀守衞門政通等、同渡海ス、(註;『新羅之記録』では、信廣・政季の渡海について享徳3年(1454)としている。)
20 享徳元年 1452 一代 信廣 清和六代新羅三郎十七代之後胤也、住天河(筆者註;上ノ国カ)、
21 享徳3年 1454 潮潟政季(下国安東政季)、武田信広らとともに、南部大畑から夷島に渡海する。信広は、蠣崎季繁の居館花沢館に拠る。
22 康正2年 1456 蜂起し、和人が多く殺され、残った人々が上ノ国と松前に集まる。一代 信廣 清和六代新羅三郎十七代之後胤也、住天河(筆者註;上ノ国カ)、
23 康正2年 1456 下国安東政季、秋田の小鹿島(男鹿半島)に進出し、のち秋田の桧山(能代市)に移る。
24 長禄元年5月 1457/5 東部の酋長コシャマインが大挙して攻め、諸館陥落し、(石崎の比石館も陥落)上ノ国花沢館、下ノ国茂別館だけが残る。
25 長禄元年6月 1457/6 コシャマインの戦いが終結した。
26 長禄元年8月 1457/8 信広が蠣崎家を継ぎ、天の川の北に新居の洲崎館を築き移り住む。
27 寛正3年 1462 信広が洲崎館の北に昆沙門天王社を創立する。(今の砂館神社)蠣崎季繁が没した。
28 応仁元年 1467 応仁の乱起こる。
29 文明5年 1473 信広が勝山館に八幡宮を建立する。(館神八幡宮と称し、今の上ノ国八幡宮)。
30 文明11年正月 1479/1 二世光広の嫡子良広(後、義広)が勝山館で生まれた。
31 延徳2年 1490 随芳和尚の法源寺が、奥尻から上ノ国へ移転した。
32 明応3年 1494 信広が勝山館で没し(64歳)、夷王山に葬られる。
33 明応8年 1499 肥後菊池家の末孫弘賢(蓮如上人の弟子)が上ノ国に浄願寺を建てた。
34 永正元年 1504 二世光広の次子高広が泊の館主となった。
35 永正4年 1507 四世季広が勝山館で生まれた。
36 永正6年 1509 高広の子基広が生まれた。
37 永正9年 1512 蝦夷が蜂起し、箱館・志苔・与倉前の三館が陥り、志苔・箱館は廃墟となってしまった。
38 永正10年 1513 蝦夷が大館を攻め、相原・村上両家が亡びた。(法憧寺阿吽寺消失し、法源寺が残った)
39 永正11年3月 1514/3 二世光広が180隻の兵船を率い、上ノ国から松前の大館に移る(大館を改修して、徳山と名づけた)。同年秋泊の館主高広(光広の次子)を勝山館の守護とする。
40 永正13年 1516 上ノ国から徳山に八幡宮を遷座した。
41 永正15年 1518 光広没し、義広継ぐ。
42 大永元年 1521 勝山の守護高広没し、その子太郎基広が守護となった。
43 大永5年 1525 蝦夷蜂起し、和人は上ノ国と徳山(松前)に避難する。
44 享禄5年 1529 西部の酋長タナケシが瀬田内の館を陥れ、上ノ国に進攻して三世義広に勝山館で射殺される。僧日尋が小堀に法華堂を建立した。
45 天文3年4月 1534/4 義広上ノ国にあり、大風雨に天の川の南岸を泳いでいた大蛇を射殺した。
46 天文5年 1536 西部の酋長タリコナが兵を挙げたので、夫妻を勝山館に誘殺する。
47 天文14年 1545 義広が没した。
48 天文17年 1548 上ノ国の守護、蠣崎基広が謀叛を企て、四世季広に討たれる。
49 天文18年 1549 季広が毘沙門天王社を修治した。
50 天文19年 1550 桧山城主下国安東舜季、夷島を視察する(東公の嶋渡)。季広は蝦夷と講和し、瀬棚の酋長ハシタインを上ノ国に置いて西夷の長として、俸米を給し、夷島交易と部族の統括に当たらせる。(天文20説もあり)
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