解題・説明
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享和(きょうわ)2年(1802)銘の明神石鳥居(とりい)である。地元椎谷(しいや)の栄寿丸の船主(ふなぬし)小三郎と水夫(かこ)5名との連銘がある。石工は「長州赤間関(あかまがせき)松屋伊兵衛清道」とある。船絵馬と同じように船中安全を祈って奉納された。長州からの帰り荷として重い石の鳥居を積んできたものであろう。この種の石造物は宮川(みやがわ)・荒浜(あらはま)や柏崎町地区でも見ることができるが、地元海運業の盛況を反映したものである。なお、香取神社は観音堂などと共に椎谷岬上に建つが、本鳥居の右の柱の黒いしみは、明治戊辰(1868)5月5日の戦いで、官軍の砲弾が命中した跡だという。このとき折れた部分は大きなカスガイで補修してある。
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