概要
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亀尾城の真下に位置し、開山は如拙伯功(にょせつはっこう)和尚、「神龍山碧巌寺」と称する。自明の住職がなく、地元区が管理した時期もあったが現在は住職により整えられている。宗旨は禅宗曹洞派である。 菊池20代為邦は、文正元年(1466)37歳で家督を嫡子重朝に譲り、剃髪して僧となり、この地で隠棲し日夜「碧巌集」の研究に励んだとされ、このことが碧巌寺の名の由来となっている。 長享2年(1488)59歳で他界し玉祥寺に葬られるが、本寺の境内隅にもその分墓(遺髪塔)がある。 菊池一族の勢力が衰えてくると、他宗の僧が住むなど、荒廃した時期もあったが、加藤清正の時代に京都東福寺より清韓(せいがん)和尚が招かれ、再興された。現在寺に残る扁額は、清韓の筆によるとされる。 平成8年現住職により庭園も修復され、室町風といわれる見事な景観を見せている。
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