概要
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19代菊池持朝の嫡子。父に引き続き筑後守護として大友氏と領有権を争ったが、これに敗れた。次男の武邦が豊福(熊本市南区城南町)で反乱を起こしたため、嫡子の重朝を差し向けて鎮圧するが、一族の弱体化が目に見え始めるのはこの頃からであると考えられる。その一方で為邦は朝鮮等との交易、また教養に力を入れている。 1446年に家督を嫡子重朝に継承して隠居し、菊池十八外城の一つ亀尾城の下に碧巌寺(へきがんじ)を開き、「碧巌集」の勉強に勤しんだ。 江戸時代の書物『肥後国志』には、加藤清正が肥後守護に任ぜられて肥後の地に向かうとき、二重の峠にて菊池為邦を名乗る武者(の亡霊)より「碧巌寺という寺が荒れてしまっているので再興して欲しい」と願われたために京都東福寺より清韓(せいがん)和尚を招き、復興させたとの記述がある。 菊池為邦画像(県指定文化財)が残されており、その賛は清韓による。墓所は為邦が開いた江月山玉祥寺にあり、また碧巌寺には没後250年を機に建てられた遺髪塔(分墓)がある。
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