概要
|
幼名を貞吉、諱を世徳、字を元輝、号を鳳陽、鳳来山樵という。隈府町宗盛富の長子。 渋江松石の「星聚堂」で句読の指導を受けたのち、名医町野松月について医術を極め、時習館助教大城霞坪(文卿の長子)に程朱子学を学ぶ。特に医学に優れていたため、再春黌生に上げられ医学の道に進む。師町野松月の子が早世したため、町野家を継ぐ。その際、玄肅と改名。再春館の句読師に任命され、江戸遊学を命じられ佐藤一斎について学ぶ。 松石への恩を忘れることなく、子龍淵、涒灘などに江戸での松石の風評などを書き送るなど細心の心遣いをした。 1866年(慶応2年)2月1日に71歳で亡くなる。発星山本妙寺に葬られている。撰文は木下梅里(きのしたばいり)、揮毫(きごう)は城野静軒(きのせいけん)。
|