北征記事
(ホクセイキジ)
時期:明治
作成年:明治4年9月
所蔵:酒田市立光丘文庫
松森胤保(マツモリタネヤス 1825~1892)が松山藩軍務総裁と庄内藩一番大隊参謀を兼ねて出兵した戊辰東北戦争の詳細を、帰還後に陣中日記から写しまとめた記録集である。胤保率いる藩隊は、慶応4年(1868)7月から、新庄、中村、横手、花楯、角館、上淀川と転戦、いずれも勝利をおさめたが、「明治」と改元した同年9月、奥羽越列藩同盟の崩壊により撤兵。同月27日、庄内藩は薩長軍(政府軍)に降伏した。降伏後、藩主とともに松嶺から上京。明治2年(1869)2月、松山改め松嶺藩の執政、公議人(明治政府の議事機関として開設された公議所に各藩から1名ずつ任命された。)に任ぜられる。8月松嶺に帰着。翌3年6月、松嶺藩大参事に任ぜられる。『北征記事』は、出征の経過や松山藩の軍令、戦闘状況などの詳しい記事と絵図、計6冊からなり、ことに鳥瞰的な構図と豊かな色彩の絵図は戦況記録の域を超えている。胤保は激動の最中の数年で『北征記事』を完成させた。絵図は胤保が草稿(下書き)し、山寺村(現酒田市山寺)の神官と農民が精写したものと書かれている。【山形県指定文化財】(参考文献 『出羽松山藩の戊辰戦争 松山町史史料編第一輯』)
酒田大震真写図
(サカタダイシンシンシャズ)
明治27年(1894)10月22日夕方、庄内地方を中心に起こった大地震の惨状を伝える石版画で、6枚が絵の描かれた袋に収納されている。発行は今町の池野伝左衛門で、地震から3か月後の明治28年1月末。以下の6場面が描かれており、うち4場面は地震直後に撮影された写真と同じ構図であり、写真をもとに描かれたものと推測される。「酒田尋常高等小学校大震潰倒之図」「酒田大震浄福寺崩壊之図」「酒田大地震出町潰家之図」「酒田本町大激震烈火中へ民狼狽之図」「酒田大震船場町湯屋崩潰烈火焼死之図」「酒田船場町旅人宿大震大火遭遇之図」。
酒田大震災実況図
(サカタダイシンサイジッキョウズ)
明治27年(1894)10月22日、午後5時37分、庄内地方を中心とした大地震が発生し、飽海郡、東西田川郡が甚大な被害を被った。酒田町の被害状況は死者162人、負傷者223人、焼失1,747戸、全壊240戸、半壊93戸、破壊329戸(『両羽地震誌』)であった。『大震災実況図』はこの時の酒田町の惨状を描いた絵巻物である。この絵巻物を描いたのが当時、酒田に滞在していた秋田の画家・生駒大飛である。『大震災実況図』は以下の10の図で構成されている。1の図・伝馬町實景二十二夜写所見、2の図・観音寺實景同夜所見、3の図・観音寺鰻亭参状二十三日午前写之、4の図・以下於船場町 写生、5の図・今町弁天社内仮小屋、6の図・海光(向)寺、7の図・山王神社、8の図・晏祥寺 四日後大潰、9の図・祥(浄)福寺、10の図・名称不記倒壊家屋の図。『大震災実況図』は「明治甲午十一月二十二日酒田大震家屋大潰危急九死得一生、其惨状有眼、因以製其図、以送堀雅兄、干時乙未春三月大飛(印)」と結ばれており、生駒大飛がこれを完成させたのは明治28年(1895)であることがわかる。【酒田市指定文化財】
新定小学習字帖 高等科用三
(シンテイショウガクシュウジチョウ コウトウカヨウサン)
『新定小学習字帖 高等科用三』は小学校高等科用教科書で、山口半峰が手本を書いた。山口半峰は明治2年(1869)1月2日酒田筑後町に生まれる。幼少のころから書に優れて注目されたが、後に書道の大家長三州に師事して一家を成す。中等教員習字科の免許を得て長く酒田高等女学校に勤務。後に東京に赴いて会計検査院に勤めるかたわら書道塾を開く。大正3年(1914)8月宮内省に入って貴重文書の清書に当たる。同9年(1920)文部省より選ばれて小学校国定教科書習字手本を書く。昭和14年(1939)1月20日に71歳で逝去。著書に『大正三字経』『千字文』『書道要訣』『甲種国定習字手本』等がある。(参考文献 庄内人名辞典刊行会『新編庄内人名辞典』)
荘内案内記
(ショウナイアンナイキ)
『荘内案内記』は文筆家で郷土史家の佐藤良次(1871~1930)が発行した庄内観光案内の本である。庄内の景勝地の写真をはじめ神社仏閣、会社、料亭の案内が詳細に記されている。また、旅館や商店の広告なども掲載している。『荘内案内記』は明治の庄内人の生活を知る貴重な資料となっている。
佐藤とし江日記
(サトウトシエニッキ)
『白地かすり(明治三十八年暑中休暇中の日誌)』及び『明治三十九年八月夏期休暇日誌』は県立酒田高等女学校の生徒であった佐藤とし江が、夏休み中の宿題として課され記したものである。明治後期の頃、尋常小学校を卒業して進学する場合、男子は旧制中学校、女子は高等女学校へ進むのが一般的であった。とはいえ進学できるのは、経済的に余裕のある家庭の子女がほとんどで、特に女子の場合は進学率わずか四・二%であった。そういう時代に“ハイカラさん”といわれ、羨望のまなざしを浴びていたであろう女学生の日常の暮しが、どういうものであったかを知る手がかりになるとともに、日露戦争の只中にあった当時の世相を伺い知ることができる。また、酒田市史などに記載された歴史的事実の裏付けとしてや、この地方での年中行事のあり方といった民俗学的分野での実例としてなど、さまざまなことが読み取れる資料となっている。
とし江の家は長右エ門という屋号で、江戸時代から荒瀬町(現在の新井田町)に住んでいた。荒瀬町は新井田川に近く、米に関わる職業の家が多かった。慶応元年(1865)、長右エ門は人別を離れ、本間外衛(本間家5代当主光暉)より譜代(本間家に仕える者)に召しかかえられたと野附文書にある。日記の書かれた明治後期頃は搗屋(つきや=米つきを生業とする家)をしていたようであるが、とし江の姉二人も女学校を卒業していることなどから考えると、かなり裕福な家であったと思われる。とし江は兄1人、姉が9人の末子であった。しかし、父は明治32年、兄は明治36年に亡くなり、婿養子に入った義兄も明治38年に亡くなっている。男主がいない状況のなか、日記には「ふかく学びの林に分け入りて世に立つ二十世紀の婦人として恥づざる良夫人とあらんこそ望ましけれ」や「菊の花散るとも我は怠らずたどりて行かん文の林を」と書かれており、良妻賢母として家庭の中におとなしく納まるのではなく、職業婦人となり自立しなければとの思いがあったのではないかと想像される。
補習科在籍中の明治39年11月、とし江は吹浦尋常高等小学校准訓導心得(教員見習い)に任命され、卒業を待たずに小学校の先生となる。当時小学校の教員が不足していたため、女学校を卒業し2年程実務につけば教員免許を取得できる措置がとられていた。明治41年に小学校正教員となり、大正8年まで酒井新田尋常小学校及び酒田尋常高等小学校に勤める。この間5回の挑戦にして大正3年に難関である高等女学校教員免許を取得する。結婚、出産を経て大正9年に念願の酒田高等女学校教諭となり、昭和13年に退職するまで教壇に立ち続けた。
「こんなに美しく面白く出来たのだから永く後々まで保存して置きなさい」
『白地かすり』の最後、担任の先生から朱書きで添えられたこの言葉どおり、日記は100年以上経った現在まで残され、当時の酒田のようすと女学生の心情を私たちに伝えるものとなった。夏季休暇日誌のほかに、大正11年までの日記と退職の頃から晩年までの家計簿に添えられた日記も残されている。とし江は歴史上に大きな業績を残したというわけではなく、4人の子を出産し、教師の職を全うし、昭和40年(1965)75歳で生涯を閉じた一般の女性であるが、それゆえにこの日記は、明治・大正期の一地方都市での一般市民の生活をリアルに感じさせる貴重な史料と言えるだろう。
尚、この女学生日記は、ご遺族の了承のもと掲載しております。
とし江の家は長右エ門という屋号で、江戸時代から荒瀬町(現在の新井田町)に住んでいた。荒瀬町は新井田川に近く、米に関わる職業の家が多かった。慶応元年(1865)、長右エ門は人別を離れ、本間外衛(本間家5代当主光暉)より譜代(本間家に仕える者)に召しかかえられたと野附文書にある。日記の書かれた明治後期頃は搗屋(つきや=米つきを生業とする家)をしていたようであるが、とし江の姉二人も女学校を卒業していることなどから考えると、かなり裕福な家であったと思われる。とし江は兄1人、姉が9人の末子であった。しかし、父は明治32年、兄は明治36年に亡くなり、婿養子に入った義兄も明治38年に亡くなっている。男主がいない状況のなか、日記には「ふかく学びの林に分け入りて世に立つ二十世紀の婦人として恥づざる良夫人とあらんこそ望ましけれ」や「菊の花散るとも我は怠らずたどりて行かん文の林を」と書かれており、良妻賢母として家庭の中におとなしく納まるのではなく、職業婦人となり自立しなければとの思いがあったのではないかと想像される。
補習科在籍中の明治39年11月、とし江は吹浦尋常高等小学校准訓導心得(教員見習い)に任命され、卒業を待たずに小学校の先生となる。当時小学校の教員が不足していたため、女学校を卒業し2年程実務につけば教員免許を取得できる措置がとられていた。明治41年に小学校正教員となり、大正8年まで酒井新田尋常小学校及び酒田尋常高等小学校に勤める。この間5回の挑戦にして大正3年に難関である高等女学校教員免許を取得する。結婚、出産を経て大正9年に念願の酒田高等女学校教諭となり、昭和13年に退職するまで教壇に立ち続けた。
「こんなに美しく面白く出来たのだから永く後々まで保存して置きなさい」
『白地かすり』の最後、担任の先生から朱書きで添えられたこの言葉どおり、日記は100年以上経った現在まで残され、当時の酒田のようすと女学生の心情を私たちに伝えるものとなった。夏季休暇日誌のほかに、大正11年までの日記と退職の頃から晩年までの家計簿に添えられた日記も残されている。とし江は歴史上に大きな業績を残したというわけではなく、4人の子を出産し、教師の職を全うし、昭和40年(1965)75歳で生涯を閉じた一般の女性であるが、それゆえにこの日記は、明治・大正期の一地方都市での一般市民の生活をリアルに感じさせる貴重な史料と言えるだろう。
尚、この女学生日記は、ご遺族の了承のもと掲載しております。
※文中の文字について
緑色の文字
関連画像が同ページ下部にあります。
青色の文字・下線(リンクあり)
別ページに注釈があります。
酒田築港調査資料
(サカタチクコウチョウサシリョウ)
最上川の改修工事は内務省により明治17年(1884)から36年(1903)まで行われ、その後県に移管して続けられていた。同35年(1902)11月酒田町の有志が自らの手で港問題の解決をはかるため酒田河口同盟会を組織し、港に関する調査に着手した。同43年(1910)に政府が秋田県か山形県に商港設置の方針を示し、秋田の土崎・船川両港と酒田港の調査が行われた。これをきっかけに酒田河口同盟会は全町一丸となった態勢になり、酒田築港期成同盟会と改称し、商港指定に向けて準備を整えていた。同44年(1911)商港は秋田県に整備されることとなったが、この時酒田築港期成同盟会が作った『酒田築港調査資料』は、酒田港輸出入貨物、出入り船舶調査などがまとめられており、当時の酒田港を知る貴重な資料となっている。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』)
酒田写真倶楽部
(サカタシャシンクラブ)
西田柳渓、伊藤悦太郎、加藤孝次郎らが酒田写真倶楽部をつくり写真集を刊行する。明治42年(1909)6月発行の第1集は風景写真を集め、翌年1月発行の第2集では写真のほかにも第1集に掲載した写真の評を載せている。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』より)
酒田新聞
(サカタシンブン)
酒田新聞は明治21年(1888)に結成された「飽海有恒会」の機関紙として明治25年(1892)に創刊された。主幹は中村弘、主筆は佐藤良次である。「飽海有恒会」は酒田地主層を中心とした飽海農談会の系譜をひき、会長には本間家第6代当主・光美が就いていた。『荘内案内記』(佐藤良次編集)には酒田新聞について「非政友を主義として有りしが現今は不偏不党である」と評している。
両羽博物図譜
(リョウウハクブツズフ)
時期:明治作成年:明治所蔵:酒田市立光丘文庫
松森胤保(マツモリタネヤス 1825~1892)が秋田・庄内地方の動物・植物・昆虫等を精緻な彩色を施して記録した図鑑で、山形県有形文化財に指定されている。全59冊の図譜は、「獣類図譜」「禽類図譜」「爬虫類図譜」など7部からなり、ほとんどの図について写生月日、寸法、所見等を詳細に記録している。また、長年の観察に基づいた独自の方法によって動植物を分類しているのも特徴的である。【山形県指定文化財】酒田市立図書館ホームページでは『両羽博物図譜』全59冊が閲覧できる。
酒田書籍購読会
(サカタショセキコウドクカイ)
酒田書籍購読会は明治34年(1901)10月、神尾一直、池田定祥、成沢直太郎、松浦孝之助、等有志12名で組織された酒田で最初の図書館。書籍購読会は賛成員(会員)制を採り、賛成員が会費を拠出し、それを元に書籍を購入して、本の貸し借りを行っていた。酒田書籍購読会については光丘文庫が所蔵する『酒田書籍購読会一途』に詳しい。
酒田商業日報
(サカタショウギョウニッポウ)
「酒田商業日報」の前身は明治31年(1898)9月に発刊された「商要魁日報」である。発行編集人は大久保儀右衛門。同年10月15日の第14号から「酒田商業日報」と名前を変更し、昭和10年代まで発行された。「酒田商業日報」に名前を変えた理由について「酒田のみに留まらず全国市場の動静を詳報に敏なる各位に酬(ムク)ゆる所あらん」(『商要魁日報』第12号)としている。往時、「酒田商業日報」は商都・酒田を代表する商業新聞であった。
酒田文庫
(サカタブンコ)
明治37年4月、酒田書籍購読会を酒田文庫と改名したことにより、新しく酒田文庫縦覧規則が規定され、酒田文庫の総理には、酒田町長、県会議員、衆議院議員を務めた池田藤八郎(イケダトウハチロウ 1862~1911)が推薦された。