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奈良時代
奈良時代とは、都が平城京(奈良県)に置かれた和銅3(710)年から平安京(京都府)へ移る延暦13(794)年までの約80年間をいいます。大宝元(701)年に大宝律令が完成して現在の刑法である律と行政組織や租税・労役を規定した令が整備されて以後、律令制度によって政治が行われました。
地方には国・評(郡)・里(郷)が置かれ、都から諸国へ派遣された国司が国府において統治を行いました。東京都が含まれる武蔵国では府中市に国府が形成され、町田市域の大半は国府がある多摩郡に含まれましたが、鶴間地域は都筑郡に、相原・小山地域は相模国に属していました。
都と地方の国府を結ぶ道路網(駅路)も整備されました。武蔵国は宝亀2(771)年にそれまでの東山道から東海道へ行政区分が変更されたことにより、相模国から武蔵国を経て下総国へ至る新たなルートが整備され、これに伴って駅路が町田市域を通過するようになったと推定されます。
天平13(741)年、聖武天皇は仏教によって国家の安定を図るため、国分寺建立の詔を出し、諸国に国分寺、国分尼寺がつくられました。武蔵国では国府に近い国分寺市に国分寺、国分尼寺が建立され、これらの寺院や国府の造営に使用される多量の須恵器や瓦を生産するために南多摩窯跡群(町田市・八王子市・日野市・多摩市・稲城市)が操業を開始し、多摩丘陵が本格的に開発されるきっかけとなりました。
このように中央の施策の影響のもと、市域の開発は進んだと考えられます。木曽森野遺跡、すぐじ山・すぐじ山下遺跡(山崎町)では開拓を目的として計画的に設置されたと推定される集落跡が確認されました。また、三輪瓦窯址は隣接する川崎市麻生区の岡上廃寺跡や橘樹郡衙・影向寺(川崎市高津区)へ瓦を供給した窯跡と考えられます。