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平安時代
延暦13(794)年に桓武天皇が平安京へ都を移して以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約400年間を平安時代といいます。公地公民を原則とする奈良時代からの律令制度は、重い税から逃れるために逃亡や戸籍を偽る農民が増加したことで直接、徴税することが困難となり、9世紀末になると受領と呼ばれる強い権限を持つ国司が徴税を請け負うようになりました。地方の有力者は、受領から田地の経営と徴税を任せられることで次第に力をつけ、自衛と所領の拡大のために武装化し、武士団が形成されていきます。これらの有力者は開発領主と呼ばれ、所領にかかる税を逃れるため中央の権力者に所領を荘園として寄進し、自らは荘園を管理する荘官となって所領の支配に努めました。このようにして寄進された荘園は、11世紀から12世紀にかけて藤原氏北家による摂関政治や天皇から退いた上皇による院政を支える経済的基盤となりました。やがて源氏、平氏に代表される武士団は、皇族・貴族の争いである保元(1156年)・平治(1159年)の乱において武力を用いて決定的な役割を果たしたことから地位が急速に高まり、仁安2(1167)年に平清盛が武士として初めて太政大臣となって政権の座につきました。
町田市域では忠生遺跡A地区2地点の10世紀を中心とした市内最大の集落と、谷戸の開発と馬牧との関連が推測される川島谷遺跡群の8~11世紀の集落が代表的なものです。9世紀から10世紀にかけて活発に操業した南多摩窯跡群のうち、八王子から町田にかけて広がる御殿山窯跡群に含まれる天沼窯では須恵器を、瓦尾根瓦窯跡では相模国分寺などへ供給する瓦を生産していました。
武蔵国では、皇室へ馬を供給する勅旨牧(ちょくしまき)が6ヶ所設置されるなど馬の生産が盛んでした。町田市にも秩父平氏の出身である小山田氏や小野篁の子孫を名乗る横山党などが馬牧経営をもとに有力な武士団へと発展していきました。