見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~ > 子どもたちの学びの歴史 > 授業・教材
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この写真は戦前の小学校の授業の様子を写したものです。でも、児童が女子だけなのはどうしてでしょう?
日本では明治5年(1872)の学制発布時には男女共学が基本とされていましたが、明治12年(1879)の教育令によって男女別学が原則になりました。このときは但し書きで小学校の共学は妨げないと記されていましたが、明治24年(1891)には尋常小学校の低学年を除いて男女別学が原則とされ、明治30年(1897)には文部省訓令により男女別学級などの設立が指示されるなど、教育を受ける場所や教科の内容を男女で分けることは、戦後男女共学が原則となるまで繰り返し強調されてきました。
ここに掲載した資料では、染物実習の様子(旧鞆絵小学校)、裁縫の授業(麻布小学校)、礼儀・作法の実習の様子(同)が見られます。お茶の出し方、ふすまの開け方なども教えられていました。麻布小学校の写真のようにふすまの開け方をみんなの前で披露することもありました。
赤羽小学校には古い映写機のランプが大切に保存されています。同校では、昭和4年(1929)に、映画教育が開始され、昭和30年頃には子どもたちが自分で映写機の操作をしていました。また、昭和38年(1963)、テレビ放送を全教室で視聴開始したころの児童の放送番組制作風景の写真も残されています。
南山小学校では、日本でテレビの本放送が始まる前年の昭和27年(1952)にテレビが設置されました。テレビ受像機は苦労して手に入れたアメリカ製で、NHKの実験放送を視聴したようです。その後、校内スタジオで児童と先生たちが自主番組の共同制作を行うようになりました。放送部などの活動ではなく、児童全員がアナウンサーであり、デイレクターであり、カメラマンでした。昭和40年代には、この取り組みが外務省の海外向けPR映画「義務教育」で紹介されることにもなりました。南山小学校で使われた「シネカメラ」は、港区立郷土歴史館に保管されています。
「綴方」と「作文」はどちらも文字を用いて文章を作成する行為のことを指しますが、それらの目的や手法に関しては様々な議論が行われてきました。
「作文」という語が教育用語として定着するのは、明治13年(1880)の改正教育令に基づく「小学校教則綱領」において「読書」(よみかき)の一部として明記されたのがはじまりであるとされています。その後「作文」は明治19年(1886)の第1次小学校令に基づく「小学校ノ学科及其程度」によって、「読書」や「習字」などとともに学科の一つとされました。しかし、明治33年(1900)の第3次小学校令に基づく「小学校令施行規則」では「作文」ではなく「綴り方」(綴方)の語が用いられるようになり、「読み方」「書き方」「綴り方」が統一されて「国語科」にされました。
明治43年度(1910)の『各學年綴方優作集』には、当時、白金小学校(当時の白金尋常小学校)の2年生だった小林秀雄の作品が収められ、「ことばのつかい方うまいもの」とのコメントが残されています。
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昭和6年(1931)制作。桜田小の屋上から写したと思われる風景、保護者や先生、勉強する子どもたちや臨海学校での様子など、夏の日常的な学校生活が記録されています。
右の資料は、大正7年(1918)に南山小学校(当時の南山尋常高等小学校)で使われていた3年生用の夏休みのおさらい帳です。
子どもたちは、夏休みの間、この教材を使って勉強していました。夏休みのおさらい帳は、1ページに、日記、漢字の問題、計算の問題、読み物などが載っています。各ページに、日付、曜日、天気、起きた時間、寝た時間を記録するところもあります。夏休みの期間も、規則正しい生活ができるようにという意図がうかがえます。
いちばん多くを占めているのが、日記を書くスペースです。当時の子どもが「今日、のこぎり山へのぼりました。とちゆまで(途中まで)行きましたが、くたびれまして休みました。……(南山小学校3年生、7月28日より)」と書いています。「3528+4376+1234+596」という計算や、「フトイ」→「太イ」、「ホソイ」→「細イ」などの漢字の問題は、現在の夏休みの宿題に通じるものがあります。
日本が第二次世界大戦で昭和20年(1945)8月に敗北した後、不適切な表現とされた教科書の記述を墨塗りし、記述を消したのが「墨塗り教科書」です。昭和20年(1945)9月、文部省通牒(つうちょう)(通達)により軍国主義や戦意をあおるような表現などが削除されました。たとえば、初等科の「ヨミカタ」(国語)では、「ヘイタイサンススメ」という詩が全文削除されました。初等科「理科」では、卵の殻を使って軍艦をつくり、浮き沈みの仕組みを教える学習の部分が削られました。
「国史」(日本の歴史)では、豊臣秀吉の朝鮮出兵についての内容が大幅に削られました。また、残された箇所についても、「大東亜をしずめようとした」が「海外への発展をくわだてた」(原文を現代仮名遣いに修正)と改められ、事実に対する歴史的な解釈が変更されました。
国史の授業は、上述の通牒の後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって地理・修身(道徳教育)科とともに停止され、教科書も回収されました。それ以外の教科では、少なくとも暫定教科書ができる昭和21年(1946)3月までは、墨塗り教科書が使用されていました。
写真では、女の子たちが、かわいらしい人形を抱いています。
これらの人形は、大正15年(1926)ごろ、「子ども同士が仲良く手をつないで平和な世界をつくろう」という趣旨で、アメリカの子どもたちから日本へ送られてきたものです。この運動により、青い目の人形がたくさん日本に届き、全国の幼稚園や小学校へ配られました。
旧神明小学校(当時の神明尋常小学校)にも、金髪で、青い大きな目の人形「ナンシーさん」が届きました。当時の女の子たちにたいへん人気がありました。
しかし、その後、日本とアメリカは厳しい戦争へと突入していきます。日本では、アメリカに対する風当たりが日に日に強くなり、やがて罪のない人形も居場所を失っていきました。