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白金小学校の著名な卒業生に大佛次郎(おさらぎじろう)と小林秀雄がいます。
大佛次郎は、「鞍馬天狗」シリーズや「パリ燃ゆ」などで有名な明治30年(1897)生まれの人気作家です。通信簿の名前は本名の「野尻清彦」。成績が第6学年だけ書かれているのは、新宿から転入してきたためです。一方、5歳年下の小林秀雄は、昭和を代表する文芸評論家・作家です。
二人の成績を見ると、当時の三段階評価のトップである「上」「甲(こう)」がズラリと並んでいます。「白金小学校卒業式答辞(1910年3月25日)」(大佛次郎記念館にて複製を所蔵)によると清彦少年は答辞を読み上げる卒業生代表を務め、白金小学校の沿革史によると秀雄少年は昭憲皇太后(明治天皇妃)の崩御にまつわる儀式に児童代表として参加するなど、それぞれ活躍していました。
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戦前の通信簿は、今のものと比べてずいぶんと漢字が多く、項目や評語も異なります。
旧鞆絵小学校(当時の鞆絵尋常小学校、現在は御成門小学校に統合)の通告簿(通信簿)を見てみると、明治41年(1908)度のものは、評価は「上・中・下」となっています。明治24年(1891)の「小学校教則大綱」の説明書では、成績を付ける際にテストの点数そのものや「上中下等比較的ノ意味ヲ有スルモノ」を使うべきではないとされていましたが、実際にはその後もしばらくの間使用され続けていたことがわかります。担任と保護者の確認欄のみでまた、現代のように保護者への通信欄などはなく、担任と保護者の捺印欄があるのみです。
大正9年(1920)度の通告簿では、評価が「甲・乙・丙(こう・おつ・へい)」に変わっています。
次に、昭和16年(1941)の国民学校令によって鞆絵国民学校となった後の昭和17年(1942)の「通告箋」では、評価も「優・良・可」となり、担任からは「ヨク努力シタリ」などと児童に関するコメントが書かれています。
戦前の小学校でも、様々な分野について児童への表彰が行われていました。各学校に残されている賞状を見てみると、その様子を知ることができます。例えば、青南小学校(当時の青南尋常小学校)の賞状にある「學術操行(がくじゅつそうこう)」の「学術」とはもちろん学業成績のことですが、「操行」とは、生徒の品性や行動、道徳的な行いの総称とされます。今日の学校とは違って、日々の言動にも優劣がつけられていたことがわかります。また、白金小学校(当時の白金尋常小学校)の賞状からは、賞状に加えて保護者会からの賞品も贈られたことが書かれており、今日との違いに驚かされます。
また、健康に関する表彰も多数ありました。青南小学校には、大正6年(1917)に発行された一年間無欠席だったことを証明する「精勤証書(せいきんしょうしょ)」や昭和15年(1940)に歯・口腔の健康優良者へ赤坂区長から贈られた賞状が残っています。高輪台小学校には、昭和34年(1959)に「健康優良校」として表彰されたアルバムが残っています。
明治9(1876)年に開校した公立南山小学(現・南山小学校)で使用されたものです。版木には「卒業」の文字がみえますが、当時は進級にも「卒業」の語を用いたので、現在の修了証書に相当する証書の版木です。