笠原水道 関連資料

【笠原水道について】
水戸城下町は用水の便が悪く、なかでも下町住民は飲料水不足に悩んでいました。
そこで2代藩主光圀(みつくに)は、藩主就任直後の寛文2(1662)年、望月恒隆(もちづきつねたか)に水道設置を命じ、望月はその設計を平賀保秀(ひらがやすひで)に命じました。
平賀は笠原から湧き出る湧水を逆川(さかさがわ)に沿い、千波湖(せんばこ)南岸に導くのが最も適切であるとの計画書を提出し、笠原が水源地に定まりました。
工事は永田勘衛門(ながたかんえもん)の指揮のもと寛文2年に開始され、翌年7月に竣工しました。総延長は約10kmに及びます。笠原から藤柄町(ふじがらちょう)までのルートは岩樋(いわひ)を用いた暗渠(あんきょ)構造で、備前堀(びぜんぼり)銅樋(どうひ)で渡し、備前堀から細谷(ほそや)までの給水ルートは木樋や竹樋を使用しました。
現在も水源地には藤田幽谷(ふじたゆうこく)撰文の「浴徳泉記(よくとくせんき)」の碑が建っています。

✓笠原水道の総延長(そうえんちょう)
 笠原水源から細谷(現在の城東(じょうとう)5丁目)まで、約10キロメートル

✓笠原水道をつくるのにかかった費用
 当時で約554(りょう)