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史料名 北郷時久寺院定書案
タイトル(カナ)
タイトル(ローマ字)
タイトル関連
タイトル関連(カナ)
タイトル関連(ローマ字)
欧文タイトル
タイトルに関する注記
差出・作成 [北郷時久]
作成者(カナ)
作成者(ローマ字)
宛所
宛先(カナ)
宛先(ローマ字)
製作者
製作者(カナ)
製作者(ローマ字)
製作年 弘治2年(1556年)9月吉日
製作年終
員数 1通
体裁 竪紙
法量 23.9×39.5cm 1紙
大きさ(縦)
大きさ(横)
大きさ(高さ)
材質
形態に関する注記
保存状況
収録時間
縮尺
備考 包紙 31.6×25.1 ウハ書「一雲公真筆乎 北郷資知謹鑑」、括紐付箋「一雲公諸寺家家定法 古系図廿九号」 楮紙 端破損 裏打有 裏打紙端裏押紙(後記)「弘治二[  ]龍[  ]」
言語
ISBN
ISSN
主題
主題(カナ)
主題(ローマ字)
関連する地域・場所
関連する地域・場所(カナ)
関連する地域・場所(ローマ字)
関連する人物・団体
関連する人物・団体(カナ)
関連する人物・団体(ローマ字)
作成年代 戦国期
作成年代終
内容 諸寺家定法之事
内容細目(カナ)
内容細目(ローマ字)
解題・説明 父 忠親が島津豊州家を継いだことから、天文15年(1546)2月、北郷家の家督を相続しました。祖父 忠相が都城盆地を統一して以後、時久の時代には支配領域が最大となり、こうした定書も出すほどに行政組織も整備されていきました。しかし、天正15年(1587)5月8日、豊臣秀吉の九州進出に伴って島津氏は降伏、やや遅れて時久も降伏しました。時久は自らの子である三久と忠頼を人質として差し出し、豊臣政権から旧領地を安堵されました。文禄4年(1595)8月、時久は文禄検地後に祁答院宮之城(薩摩郡さつま町)に移封され、慶長元年(1596)2月3日、宮之城で死去しました。
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関 都城島津邸
原資料の所在地
番号 無番号白木箱1
ID 06744
カテゴリ区分
資料種別
資料分類(大分類) 都城島津家伝来史料
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
文化財情報
manifest.jsonへのURL https://adeac.jp/viewitem/miyakonojo-city-shimazutei/viewer/iiif/v00012588/manifest.json
参照データ
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自治体史掲載
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