地図でみる都城いまむかし
都城市に残る地名は、中世の山城や、江戸時代に形成された村・町の名称が由来となっています。そして、江戸時代以降、明治期の市制・町村制など様々な変化を経ながら現在の市域が成立してきました。
ここでは、それらの様子を、江戸時代に作成された絵図と現在の地図とを比較しながらご覧いただけます。
なお、江戸時代に作成された絵図は、縮尺や距離等が正確ではありません。このため、現在の地図と正しく重ならない部分もあります。しかし、住んでいる場所・知っている場所が、かつてどのような姿であったのかを知る手がかりとして活用ください。

西五十町画図
江戸時代中期頃に作成されたもので、元和元年(1615)に都城から領主館へ移る前の状況を描いた絵図です。
絵図の明るい部分が該当地域で、現在の都島町や南鷹尾町、五十町あたりとなります。「龍泉寺」は現在の「陸軍墓地(都島公園)」と重なり、「後町」と「三重町」は現在の南鷹尾町に位置していました。

横市村絵図(荘内地理志六十九)
江戸時代後期に作成された『庄内地理志』に収録されている絵図です。
現在の南横市町、横市町、都原町あたりの絵図で、横市川が重なっていますが、現在と比較してかなり蛇行していたことがわかります。

前川内村絵図(荘内地理志七十四)
江戸時代後期に作成された『庄内地理志』に収録されている絵図です。
現在の庄内町・菓子野町あたりの絵図で、庄内川をはじめ、「諏訪神社」や「豊幡神社(山久院跡)」、さらに「城山(安永城跡)」と重なっており、江戸時代以前から都城島津家に由来する施設が多く存在したことがわかります。

竹之下都城御城絵図
北郷氏の居城で市の名前の由来にもなった「都城」の絵図です。
江戸時代初期に作成されたものと考えられており、「本丸」や「西城」、「池ノ上城」などの各曲輪(くるわ)や、「中尾口」、「弓場田口」などの五口の出入口が詳細に記されています。現在の都島町、大淀川のすぐ西側に位置し、川の水を城内で活用していたこと、また元和元年(1615年)の一国一城令によっては廃城となる以前は、現在の市街地にまで城域が広がっていたことがわかります。

安永城図
庄内川とその支流小田川の合流点近くに立地した「安永城」の絵図です。
「安永城」は、北郷氏6代敏久(としひさ)が築き、慶長4年(1599)の庄内合戦において戦場となったと伝わります。また、この絵図から「安永城」は「本丸」・「二之丸」・「金石」・「取添」の4つの曲輪(くるわ)から成る城であったことがわかります。現在の庄内町に「城山」として残っており、城域内には昭和4年(1929)に創建された南洲神社があります。