木造釈迦如来坐像もくぞうしゃかにょらいざぞう(彫刻ちょうこく)
この木像もくぞうはケヤキの一木造いちぼくづくりで、関東かんとうにおける平安時代末定朝様へいあんじだいまつじょうちょうようの特色とくしょくが見みられます。像内ぞうないには、元禄げんろく2年ねん(1689)に大修理だいしゅうりしたことが墨書ぼくしょされています。
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ムクノキむくのき(天然記念物てんねんきねんぶつ)
このムクノキむくのきは、樹高じゅこう約(約やく)18m、胸高周囲きょうこうしゅういが約(約やく)5.9mと巨大きょだいなもので、樹齢じゅれいは約(約やく)500年ねんと推定すいていされています。以前いぜん行おこなわれた大枝おおえだの剪定後せんていごも、健全けんぜんな樹勢じゅせいを保たもっています。
エノキえのき(天然記念物てんねんきねんぶつ)
このエノキえのきは、廿三夜尊堂内にじゅうさんやそんどうないの塚つかの上うえに植うえられており、樹齢じゅれい約(約やく)300年ねんで、周囲しゅうい3.3m、樹高じゅこう約(約やく)10mの非常ひじょうに均整きんせいのとれた枝張りえだばりで美うつくしい樹姿じゅすがたを持もっています。
寅薬師如来とらやくしにょらい(彫刻ちょうこく)
この仏像ぶつぞうは、ヒノキの一木割矧造いちぼくわりはぎづくりで、襞ひだの表現ひょうげんや割矧わりはぎの技法ぎほうなどに室町時代むろまちじだいの特徴とくちょうが見みられます。通常つうじょうは厨子ずしに納おさめられ、12年ねんに1回かい寅年とらどしのみ御開帳ごかいちょうされています。
古文書一式こもんじょいっしき(古文書こもんじょ)
赤法花あかぼっけの染谷家そめやけに残されていた『御用留ごようどめ』は、享保きょうほう10年ねん(1725年ねん)から158年間ねんかんにわたり、当時とうじの地方行政ちほうぎょうせいを知る貴重きちょうな資料しりょうです。現在げんざいは茨城県立歴史館いばらきけんりつれきしかんに寄託きたくしてあります。
熟鉄製海老じゅくてつせいえび(工芸品こうげいひん)
作者さくしゃの明珍宗矩みょうちんむねのりはもと土浦藩つちうらはんに仕えていた甲冑師かっちゅうしで、明治維新後めいじいしんご、甲冑かっちゅうを作る手法しゅほうを活用かつようしてこの工芸品こうげいひんを作成さくせいしました。本品ほんぴんは金属工芸品きんぞくこうげいひんとして精緻せいち巧妙こうみょうを極きわめています。
一里塚いちりづか(史跡しせき)
この一里塚いちりづかは江戸時代えどじだい、常陸国ひたちのくに笠間かさまに通つうじていた笠間街道かさまかいどうにつくられたもので、染谷家文書そめやけもんじょによると、文政ぶんせい8年ねん(1825年ねん)には塚つかがあったことが記しるされています。
聖徳太子立像しょうとくたいしりゅうぞう(彫刻ちょうこく)
「沼崎山畧縁起ぬまざきさんりゃくえんぎ」によると、祖師そし「親鸞聖人しんらんしょうにん」が彫刻ちょうこくし、縁えんあって永泉寺えいせんじに譲ゆずられ安置あんちされたものです。鎌倉時代末かまくらじだいまつから南北朝時代なんぼくちょうじだい(14世紀せいき)の制作せいさくと推測すいそくされています。
沼崎山畧縁起ぬまざきさんりゃくえんぎ(古文書こもんじょ)
この縁起えんぎには、永泉寺えいせんじが平将門たいらのまさかどの古跡こせきであり、将門まさかどが天慶の乱てんけいのらんに敗やぶれた際さい、遺臣いしんが将門まさかどに似にせた土偶どぐうを安置あんちし、堂宇どううを建たてて代々だいだいこれを守まもってきたことが記しるされています。
禁制文書きんせいもんじょ(古文書こもんじょ)
この文書もんじょは、天正てんしょう18年ねん(1590年ねん)5月がつ、豊臣秀吉とよとみひでよしが関東かんとうに進攻しんこうした際さい、大将たいしょうの浅野弾正少弼長政あさのだんじょうしょうひつながまさと木村常陸介きむらひたちのすけが、寺てらが荒あらされないよう、軍兵ぐんぺいを戒いましめたものです。
徳川家康寄進状とくがわいえやすきしんじょう(古文書こもんじょ)
天正てんしょう19年ねん(1591年ねん)11月がつ、徳川家康とくがわいえやすが高こう10石こくの土地とちを長龍寺ちょうりゅうじに寄進きしんした際さいに発給はっきゅうした朱印状しゅいんじょうです。家康いえやすの関東入国かんとうにゅうこくの際さい、数多かずおおく発給はっきゅうされた朱印状しゅいんじょうのうちの一ひとつです。
絵馬えま(絵画かいが)
慶応けいおう2年ねん(1866年ねん)2月がつに奉納ほうのうされたもので、作者さくしゃは狩野派かのうはの画家がか 狩野友信かのうとものぶです。図柄ずがらは八坂神社やさかじんじゃの祭神さいしん「素戔嗚尊すさのおのみこと」が八岐大蛇やまたのおろちを退治たいじする雄壮ゆうそうな場面ばめんです。
八坂神社祇園祭やさかじんじゃぎおんまつり(無形民俗むけいみんぞく)
神輿みこしの担かつぎ手ては氏子町内うじこちょうないから選出せんしゅつされ交代こうたいすることなく各町内かくちょうないを渡御とぎょします。また全すべての山車だしには回り舞台まわりぶたいが付ついており、グルグルと回まわる姿すがたは守谷祇園もりやぎおん特有とくゆうのものです。
守谷城址もりやじょうし(史跡しせき)
源頼朝みなもとのよりともの家人けにん、千葉常胤ちばつねたねの子こ 師常もろつねが築城ちくじょうした説せつが有力ゆうりょくですが、史料しりょうがなく断言だんげんできません。自然しぜんの地形ちけいを利用りようした堅固けんごなもので、中世期ちゅうせいきの城郭じょうかくとしてはまれにみるものです。
土器どき・石器せっき(考古資料こうこしりょう)
守谷小学校もりやしょうがっこうに保管ほかんされている数十点すうじゅってんにのぼる土器どき・石器類せっきるいは故石田庄七氏こいしだしょうしちしが主おもに郷州原ごうしゅうばらで採取さいしゅし、自宅じたくに保管ほかんしていましたが、没後ぼつごの散逸さんいつを恐おそれ、小学校しょうがっこうに寄贈きぞうしたものです。
鰐口わにぐち(工芸品こうげいひん)
元和げんな7年ねん(1621年ねん)11月がつ、当時とうじの守谷もりやの領主りょうしゅ 土岐内膳介頼行ときないぜんのすけよりゆきが、荒廃こうはいしていた愛宕神社あたごじんじゃの社殿しゃでんを再建さいけんしたとき、その家臣かしん 井上久左衛門いのうえくざえもん、加藤久太夫かとうきゅうだゆうの両名りょうめいが寄進きしんしたものです。
小菅家住宅表門こすげけじゅうたくおもてもん(建造物けんぞうぶつ)
この門もんは中規模ちゅうきぼの一間薬医門いっけんやくいもんで、建築年代けんちくねんだいは明治期めいじきと推定すいていされます。木材もくざいはケヤキの良材りょうざいを使つかっており、上層農家じょうそうのうかの表門おもてもんとして優れたすぐれた遺例いれいです。
海禅寺縁起かいぜんじえんぎ(古文書こもんじょ)
この縁起えんぎは寛文年間かんぶんねんかん(1661~1672年ねん)、守谷一万石もりやいちまんごくの領主りょうしゅとなった堀田備中守正俊ほったびっちゅうのかみまさとしが寄進きしんしたもので、平将門たいらのまさかどが、紀州きしゅうの高野こうやになぞらえて、海禅寺かいぜんじを建立こんりゅうしたとあります。
スダジイすだじい(天然記念物てんねんきねんぶつ)
樹齢じゅれいは約(約やく)250年ねんと推定すいていされ、周囲しゅうい約4.9m、樹高じゅこう約(約やく)25mで枝えだを四方しほうに伸のばした巨大きょだいで自然性しぜんせいの高たかい樹体じゅたいを持もち、天然分布てんねんぶんぷの北限ほくげんに位置いちしながら、健全けんぜんな生育せいいくを示しめしています。
阿弥陀如来坐像あみだにょらいざぞう(彫刻ちょうこく)
ヒノキの寄木造よせぎづくりによる来迎印らいごういんの座像ざぞうで、西光寺さいこうじの本尊ほんぞんとして安置あんちされています。50cm程ほどの小像しょうぞうですが、正面しょうめんの襞ひだは技巧的ぎこうてきに彫刻ちょうこくされ、鎌倉時代かまくらじだいの特徴とくちょうを備そなえています。
阿弥陀如来立像あみだにょらいりゅうぞう(彫刻ちょうこく)
この像ぞうは、ヒノキ材ざいによる寄木造よせぎづくりで、来迎形らいごうぎょうの阿弥陀如来立像あみだにょらいりつぞうです。南北朝なんぼくちょうから室町時代初期むろまちじだいしょき(14世紀せいき)の様式ようしきが顕著けんちょに表あらわれています。