昔話イメージのダミー

守谷(もりや)七不思議(ななふしぎ)

守谷に(つた)わる不思議(ふしぎ)なおはなし

七不思議(ななふしぎ)とは、ある地域(ちいき)場所(ばしょ)において()こる不思議(ふしぎ)な7つの出来事(できごと)をいうよ。ここでは守谷に(つた)わる不思議(ふしぎ)なおはなしを紹介(しょうかい)するよ。

(はな)()かない桔梗(ききょう)

(はな)()かない桔梗(ききょう)平将門(たいらのまさかど)は、(いくさ)のときにはいつも自分(じぶん)にそっくりな七人(しちにん)影武者(かげむしゃ)()れていたので、(てき)はどれが本物(ほんもの)将門(まさかど)なのかわからず、苦戦(くせん)していました。 そのころ将門(まさかど)(あらそ)っていた藤原(ふじわらの)秀郷(ひでさと)には、桔梗(ききょう)という()のとても(うつく)しい(むすめ)がいました。 そこで秀郷(ひでさと)は、将門(まさかど)弱点(じゃくてん)(さぐ)るため、桔梗(ききょう)身元(みもと)(かく)して、将門(まさかど)のお(よめ)さんにしました。 将門(まさかど)(たいらの)貞盛(さだもり)藤原(ふじわらの)秀郷(ひでさと)(たたか)いの(なか)で、将門(まさかど)があやまって泥深(どろぶか)()んぼに()ちると、これを守谷(もりや)(しろ)から()ていた桔梗(ききょう)は、貞盛(さだもり)合図(あいず)(おく)りました。 そのおかげで貞盛(さだもり)は、本物(ほんもの)将門(まさかど)弓矢(ゆみや)()ることができました。 この(あと)桔梗(ききょう)(しろ)()()しましたが、()ってきた将門(まさかど)家来(けらい)()(ころ)されてしまいました。 桔梗(ききょう)(ころ)されたあたりは、やがてだれいうとなく「桔梗ケ原(ききょうがはら)」と()ばれるようになりました。 そして、(ころ)された桔梗(ききょう)(うら)みによるものなのか、桔梗ケ原(ききょうがはら)()える桔梗(ききょう)は、(はな)()かなかったそうです。 桔梗ケ原(ききょうがはら)は、現在(げんざい)のみずき()一部(いちぶ)ということですが、(くわ)しい場所(ばしょ)はわからなくなってしまいました。

村上春樹著(むらかみはるきちょ)平将門(たいらのまさかど)伝説(でんせつ)」ほか

シラサギの(れい)

(いま)から400(ねん)ぐらい(まえ)戦国(せんごく)時代(じだい)のことです。現在(げんざい)取手市(とりでし)下高井(しもたかい)に「高井(たかい)(じょう)」というお(しろ)がありました。
殿様(とのさま)相馬(そうま)胤永(たねなが)といい、守谷城(もりやじょう)殿様(とのさま)相馬(そうま)治胤(はるたね)(おとうと)で、武勇(ぶゆう)(すぐ)れていることで有名(ゆうめい)でした。
あるとき胤永(たねなが)(おお)くの家来(けらい)()()れて、守谷沼(もりやぬま)のあたりに()りに()ました。 しかし、この()はどうしたことか、一匹(いっぴき)獲物(えもの)()ることができません。
あきらめて(しろ)(かえ)ろうとしたとき、一羽(いちわ)のシラサギが胤永(たねなが)たちの(ほう)()かって()()りてくるのが()えました。 胤永(たねなが)は「これはよい獲物(えもの)だ」と(ゆみ)満月(まんげつ)のように()(しぼ)り、シラサギに()かってびゅっと()(はな)つとみごとに命中(めいちゅう)。シラサギは(ちゅう)をくるくると(まわ)りながら、地面(じめん)()ちました。 この()獲物(えもの)はシラサギ一羽(いちわ)だけでしたが、胤永(たねなが)上機嫌(じょうきげん)(しろ)(かえ)ると、家来(けらい)たちと酒盛(さかも)りを(はじ)めました。
やがて()もふけたころ、どこからともなく(うつく)しい(むすめ)(あらわ)れ、ひどく(かな)しげな声(こえ)で「われはシラサギ ()()みて (みじか)(いのち)(なが)かれと (いの)りもあだに(ゆみ)(つる)の 矢先(やさき)()えしはかなさよ」と(うた)いながら着物(きもの)(そで)(かろ)やかになびかせ()(おど)るのでした。
そして、(まい)()わると煙(けむり)のように()えてしまったのです。
胤永(たねなが)家来(けらい)たちは、この不思議(ふしぎ)なできごとを()()たりにして大変(たいへん)(おどろ)きましたが、やがて「これは昼間(ひるま)射止(いと)めたシラサギの(れい)が、(いのち)()たれた(かな)しみを(うった)えるため(むすめ)姿(すがた)()えて(あらわ)れたのだろう」ということになり、シラサギが()ちたあたりに(ちい)さな(ほこら)()ててやりました。
また胤永(たねなが)は、この()以来(いらい)必要(ひつよう)のない殺生(せっしょう)()ったということです。
(とき)()江戸(えど)時代(じだい)になると、だれかがこの(ほこら)()()え、薬師(やくし)(さま)をお(まつ)りしました。
これが(いま)(のこ)奥山(おくやま)本田(ほんでん)薬師堂(やくしどう)です。

広報(こうほう)もりや「郷土(きょうど)歴史(れきし)」(昭和(しょうわ)55(ねん)8(がつ)10(にち)発行号(はっこうごう)

()(なが)大杉(おおすぎ)

安永(あんえい)9(ねん)(1780)ごろ、守谷城(もりやじょう)(あと)雑木林(ぞうきばやし)(かや)(しげ)草原(そうげん)になっていて、()(まる)北東(ほくとう)のあたりには、一本(いっぽん)(おお)きな(すぎ)()がありました。
宝暦(ほうれき)(1751~1764(ねん))のころ、城跡(しろあと)()全部(ぜんぶ)(のこ)らず()ろうとしたことがあったのですが、この()()(はじ)めると傷口(きずぐち)から()(なが)()てきたのです。 きこりの(ひと)たちは(みな)(おそ)ろしがって、近付(ちかづ)くこともできなくなってしまいました。
こうして、この(すぎ)()だけが(のこ)されることになりました。 (すぎ)()(のこ)したおかげでしょうか、だれも(たた)られなかったそうです。

今泉政隣著(いまいずみまさちかちょ)関宿(せきやど)伝記(でんき)

(とら)薬師(やくし)御手洗(みたらし)(いけ)

()木崎(きざき)正安寺(しょうあんじ)(まつ)られている(とら)薬師(やくし)如来(にょらい)は、(とく)()病気(びょうき)霊験(れいげん)(ひと)(いの)りや(ねが)いに(おう)じて(かみ)(ほとけ)(しめ)不思議(ふしぎ)(ちから)(あらわ)れ)があるといわれています。 ()病気(びょうき)にかかった(ひと)薬師(やくし)(さま)にお(まい)りし、(てら)から(すこ)(はな)れたところにある御手洗(みたらし)(いけ)(みず)()(あら)うと、たちまちに病気(びょうき)(なお)るというので、お(まい)りに()(ひと)竹筒(たけづつ)(みず)をもらうのが(なら)わしだったということです。
また、(いま)はありませんが、御手洗(みたらし)(いけ)(みず)瑠璃(るり)(みず)という目薬(めぐすり)をつくっていました。

寅薬師

玉屋(たまや)(はな)座敷(ざしき)

明治(めいじ)10年代(ねんだい)のころのことです。 守谷(もりや)近辺(きんぺん)(もの)()()いしている東京(とうきょう)商人(しょうにん)が、(ぼん)(つき)(いま)の8(がつ)ころ)に集金(しゅうきん)(まわ)り、玉屋(たまや)という料理(りょうり)旅館(りょかん)()まることになりました。 玉屋(たまや)ではなじみの(きゃく)だったので(おく)(はな)座敷(ざしき)(とお)したのですが、それがかえってあだとなってしまって、商人(しょうにん)はその(よる)(しの)()んだ泥棒(どろぼう)(おそ)われ、(あつ)めたお(かね)(うば)われてしまいました。 さて、利根川(とねがわ)反対側(はんたいがわ)木野崎村(きのさきむら)に、山崎(やまさき)宗右衛門(そうえもん)という廻船(かいせん)問屋(どんや)江戸(えど)時代(じだい)(ふね)()()取扱(とりあつか)いをした業者(ぎょうしゃ))がいました。 東京(とうきょう)商人(しょうにん)はこの廻船(かいせん)問屋(どんや)とも()()きがあったので、昼間(ひるま)()()っていたのですが、商人(しょうにん)(おそ)われた(よる)宗右衛門(そうえもん)(おそ)ろしい(ゆめ)()たのです。 それは、東京(とうきょう)商人(しょうにん)()だらけの姿(すがた)となって枕元(まくらもと)()ち、「宗右衛門(そうえもん)さん。わたしはこんな姿(すがた)になってしまった」と(かな)しげな(こえ)でいうと、姿(すがた)()したのです。
(つぎ)()(あさ)()らせを()いた宗右衛門(そうえもん)玉屋(たまや)()けつけると、商人(しょうにん)(いま)にも()にそうな状態(じょうたい)()きていましたが、()もなく()くなりました。 この事件(じけん)以来(いらい)玉屋(たまや)(はな)れには亡霊(ぼうれい)()るといううわさが()ったそうです。
なお、この玉屋(たまや)八坂(やさか)神社(じんじゃ)のとなりにあったとされています。

三夜(さんや)(さま)のエノキ

地元(じもと)では「三夜(さんや)(さま)」と()ばれている野木崎(のぎさき)廿(にじゅう)三夜(さんや)(そん)境内(けいだい)に、(おお)きなエノキの()があります。
あるとき、木登(きのぼ)自慢(じまん)若者(わかもの)が、この()(のぼ)ることになりました。すると(あし)あしをすべらせ、()ちて()んでしまったのです。 しばらくして(べつ)若者(わかもの)(のぼ)ることになりました。
今度(こんど)(あし)をすべらせないようにロープをかけて(のぼ)ったのですが、そのロープが()れて()ちてしまいました。
またしばらくして、(べつ)若者(わかもの)が「(くさり)ならば()れることはないだろう」といって(くさり)使(つか)うことにしたのですが、それも()れて()ちてしまったのです。
これはエノキの(たた)りだということになって、()(のぼ)(もの)はいなくなりました。
現在(げんざい)このエノキは、守谷市(もりやし)指定(してい)天然(てんねん)記念物(きねんぶつ)です。
絶対(ぜったい)(のぼ)らないでください。

エノキ

高野(こうや)のお()(いし)

昭和(しょうわ)50(ねん)(なつ)高野(こうや)仲坪(なかつぼ)地区(ちく)にある不動明王(ふどうみょうおう)石碑(せきひ)に「(ひと)(かお)(うつ)っている」として、大変(たいへん)(さわ)ぎになったことがあります。 ある()石碑(せきひ)(まえ)(あそ)んでいた小学生(しょうがくせい)(おんな)()が「(いし)(かお)(うつ)っている」と()()したのがきっかけとなり、近所(きんじょ)(ひと)たちが次々(つぎつぎ)()にいくようになりました。 ある(ひと)(かみ)(なが)(おんな)()えると()い、ある(ひと)老人(ろうじん)(かお)だと()いました。 やがて(うわさ)(うわさ)()び、7(がつ)(はい)ると新聞(しんぶん)週刊誌(しゅうかんし)、テレビのワイドショーでも毎日(まいにち)のように「高野(こうや)のお()(いし)」として報道(ほうどう)されたので、大勢(おおぜい)見物客(けんぶつきゃく)()()せたのです。 見物客(けんぶつきゃく)(なか)には石碑(せきひ)にお賽銭(さいせん)をあげる(ひと)がいて、だいぶたまったある(とき)、このお賽銭(さいせん)(はこ)ごと(ぬす)まれてしまいました。 ところが、(ぬす)まれて1週間(しゅうかん)ほどたったころ、お賽銭(さいせん)(かえ)しに()(ひと)がいました。 その(ひと)(はなし)によると、お賽銭(さいせん)(ぬす)んだ(ひと)がその(あと)バイクで交通(こうつう)事故(じこ)()こし、「これはお()(いし)(たた)りだろうから、()わりにお賽銭(さいせん)(かえ)して()てくれ」と(たの)まれたというのです。 こんなことがあって、8(がつ)になるとますます見物客(けんぶつきゃく)()えたのですが、秋風(あきかぜ)()くころになると(たず)ねてくる(ひと)もめっきり(すく)なくなりました。 そして、だれかがスプレーで落書(らくが)きすると、それ以来(いらい)(かお)()えなくなってしまったということです。