岡山市立図書館/岡山市立図書館デジタルアーカイブ

タイトル

古文書から知る、幕末の岡山城下

 岡山城下の豪商、国富家の当主であった国富源次郎は、嘉永7年(その年に安政と改元)から万延元年(1860)まで、城下町の行政の長官である町奉行(武家)の支配下で、町人を代表する「惣年寄」(定員3名)の役職を務めました。国富家の文書からは、その前後の期間にわたる岡山城下の町人社会の動向がうかがえます。


京橋御懸ヶ替御渡リ初之留

京橋の架け替え(「京橋御懸ヶ替御渡リ初之留」)

 弘化4年(1847)の京橋架け替えで、工事中の通行規制や、工事の詳細、市街に火災があったときの対処法、竣工後の渡り初め式などの記事を書き取り、1冊にまとめた帳(留帳)です。その中から渡り初め式の一部始終が記された箇所を翻刻しています。

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地震書上

大地震の記録(「地震書上」)

 国富源次郎が惣年寄に就任した嘉永7年(1854)の冬、岡山城下は安政南海地震に見舞われました。
 翻刻のある最初の文書(触書)は、惣年寄が受け持ちの町々の役人へ、建物と人の被災状況を書面で知らせるように求めたものです。文書は各町を次々回覧され、時刻が書き入れられています。
 2番目の文書(書上)は、町々のひとつ、橋本町からの被災状況の報告です。惣年寄はこうして集まった情報を取りまとめて、町奉行へ伝達します。
 3番目の文書には、被災し難渋する家族(西中島町の大工、万吉)への救米支給と、母親を亡くした尾上町の畳屋、源之介を気遣う言葉が書かれています。
 4番目の文書(触書)は、町奉行が町々の役人へあてた通達です。夜盗や火事を防ぐため、被災した市街で夜番を勤める住民をねぎらうとともに、夜番中に酒宴に及ぶ人もあったようで、後半ではそれをたしなめています。

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御触書 失物とも

岡山城下で最初の相撲興行(留帳「御触書 失物とも」)

 これは町々を回覧された触書の原本ではなく、留帳へ書き写されて内容が伝わってきたものです。
 財政難からの藩札切り下げと安政南海地震の被災で岡山城下は不景気に襲われ、まるで火が消えたようなありさまでした。そのため有力な町人からの発議で、それまでは風紀の上から禁じられてきた相撲の興行が特別に許され、安政2年(1855)に実施されることになりました。
 町奉行(山根惣右衛門)から惣年寄(国富源次郎)を通じて町々へ触れ回されたこの文書は、住民が待ちこがれる相撲の開催を告げるもので、風紀を乱さないように繰り返し注意を促しています。
 町奉行は最後に、もしも違反があって「・・もとより永続の義、あい調い難くそうろうては、拙者においても恐れ入り奉りそうろう(「恐れ入る」=「困ったことになる」)」と記しています。これが「この件では自分も町々のために骨折ってきたので、私の面目をつぶさないでほしい」という意味なら、町奉行が町人の希望を汲んで藩の上層部を説得したことが読み取れ、当時の市政の機微がうかがわれます。

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