機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―
トップページ
資料グループ選択
全短歌(10791首)(資料グループ)
無題(目録)
/ 11652ページ
目録ID
ku011028
タイトル. 版. 巻次
無題
タイトル. 版. 巻次(カナ)
タイトル. 版. 巻次(ローマ字)
タイトル関連
形成
タイトル関連(カナ)
タイトル関連(ローマ字)
欧文タイトル
タイトルに関する注記
編著者
編著者(カナ)
編著者(ローマ字)
出版者
出版者(カナ)
出版者(ローマ字)
出版年
出版年終
数量
形状
大きさ
大きさ(縦)
大きさ(横)
材質
形態に関する注記
保存状況
縮尺
その他の注記
言語
日本語
ISBN
ISSN
件名
件名(カナ)
件名(ローマ字)
地名件名
地名件名(カナ)
地名件名(ローマ字)
人名件名
人名件名(カナ)
人名件名(ローマ字)
内容年
内容年終
内容細目
内容細目(カナ)
内容細目(ローマ字)
解題・説明
解題・説明(英語)
来歴
来歴(英語)
所蔵機関
原資料の所在地
資料番号
管理記号
カテゴリ区分
図書
資料種別
資料分類(大分類)
資料分類(中分類)
資料分類(小分類)
文化財情報
manifest.jsonへのURL
参照データ
関連ページURL
関連画像URL
自治体史掲載
出版物・関連資料
翻訳元の言語
権利関係・利用条件
原資料の利用条件
権利関係・利用条件に関する注記
緯度・経度・高度に関する注記
DOI
既刊目録名
デジタル化の経緯に関する注記
/ 11652ページ
関連目録(1000件まで)
形成
無題
こもごもに語り疲れて夜の更けぬひとりのわれとなりて眠らむ
たれよりも饒舌なりしわれと思ふ夜の更けてより響く潮の音
夕かげに光りてゐたる貝殻も夜の満ち潮にひたされてゐむ
去なばまたいつ来む海ぞ朝もやの霽れゆくを永くかかりて見ゐつ
事故の夜のざわめきの中カンテラに鬼面のごとき顔照らしあふ
面影の老いてつきとめ得ぬままに大き楽器を背負ひ去りたり
幾たびか夜霧の原に出でて呼ぶ放れし小犬呼ぶごとくして
傷口にしきりに蠅の寄るごとく何の夢見てうとみゐたりし
めざむれば蹼欠せて繃帯を巻きし右手が投げ出されゐつ
糖蜜を煮詰めて雪の日をこもり母ありし日のごと硝子曇らす
年齢の差だけ後れてかなしまむ妹か白のコートなど着て
ゆくりなく視界ひらけて枯れ原に夜すがらともす鶏舎幾棟
森深く潜める夢の醒めむとす風はブザーの音を呼びつつ
雪渓の祟り怖るるわれを措き発ちにき再び逢ふ日なかりき
日を選び新しき服着て出づる人に知られぬ祈りにも似て
ひとしきり逸る焰の音聴けば暖炉などにも脅かさるる
ガーゼもて仔犬の耳孔拭ひやる風邪癒え難き日のたゆたひに
木枯に醒めて思へり風の夜は星が美しと言ひて歩みき
ゆきずりに交はす言葉も潤ふと花終へし木瓜の垣をめぐりつ
色褪せし花忽ちに散りし花さまざまにわれのこころを乱す
さすらひの心朝よりきざしゐて枯れ木を踏めば音のはろけさ
いつの日に入れしままなる指貫か雨衣のかくしより出づ
蜂蜜の凍てもいつしかゆるみゐて朝のパン食む日あたる縁に
さかしらを言ひ来し心寂しきに青き靄刷く夕べの坂は
気になりてゐし事務服の釦などつけかへて日直の昼も闌けゆく
カレー粉の匂ひをつねに纏らせ事務室に来る炊婦も老いぬ
観音に似せてマリアを刻みつつ何祈りけむいにしへびとら
濃密に層なす闇と思ふとき植ゑ並められし若木が匂ふ
巣を高く張り替へてゐる蜘蛛に会ふ漂ふごとくありたき時に
篠原のかなたに家の建ち始め夜々みどり児の泣く声がする
換算し得る年月と思はねど償ひ呉れむと言ふ人ならず
待ちて得しもの幾ばくぞ十年目白髪の目立つ君を見しのみ
涙もろくなりし心かバスを待つ広場の人のいきれの中に
転換を計り呉れむとする汝か緑色濃き地図をひろげて
糸切れて畳にこぼれて珊瑚珠を拾ひつつ心華やぐとなき
森に来て誰か吹き習ふトランペット笑ひ合ふまで心直りつ
過信して今しばらくは生き得むか花の模様の服地選りつつ
母の櫛父の時計も土にいけて去りゆく心定めむとする
山椒のつぶらに赤く実る庭移り来し家に幸待つごとし
花闌けしニツコウキスゲの群落を過ぎて烈しき夕立に会ふ
湖のほとりの野菊濡らす雨耳覆はれて荷馬過ぎゆく
前の世の沼のごとしと見てゐたり曇り映して澱める水を
伴はれ旅ゆくこともなかりしと別れし夫を思ひつつ寝る
道ばたに模造の真珠売られゐるまづしき街も過ぎて旅行く
遠き世の殺戮のあとの野と言へり石鏃拾へば刄のこぼれゐる
いつの世に沈められたる鐘ならむ沼のほとりの夜々に聞ゆる
遠くにてガラス割れたる音せしがわれもいらだつ心を持てり
口紅をさして貰へば帰りゆくまだ目のあかぬ仔犬抱き来て
鉄分のぬけぬ井戸水瀘して汲み住み慣れゆかむ萩咲く家に
粗壁のまま入りて住む一家族女童の声を夜々にひびかす
暗闇の地平に野火を這はせゐてわれを脱け出でし如き人影
スプーンの箱覆したる残響のきらきらとして一夜続きぬ
あたためしナイフもてパイ切らむとし酸ゆき果実の香が蘇る
笹原の起伏の奥に蛇を祀る祠ありて細き道が続けり
重油かけて共に燃やさむ年々にわれの窪みに溜まる落ち葉も
喪の家を指す矢印にみちびかれ沙羅散りしける垣に添ひゆく
ひとしきり潮に輝き消えしとふ亡き子のホルン沈めしと言ふ
隙のなき論も寂しと聴きゐたり膝に置きたる両手が懈し
地境に柵をめぐらす計画の進みつつ日々に草生色づく
スノーボートに運ばれゆきし死者の後冴々と画面に映る雪山
橋灯のほとりに立ちて待つ時間かのときめきは還ることなし
夜の森を飛び立ちてゆく鳥の声もの縫ふわれは針を磨けり
舶来の化粧水など置きゆけり言はぬ歎きを見透かすごとく
飾り窓に残れる銀の十字架を見届けて夜のなぐさめ淡し
立ち向ふ心何時しか湧きて歩む何が端緒といふにもあらず
何のせても同じ目盛りを指す秤今の間に測りておく物なきや
ワイヤーをひきずる如き音せしが何事もなく雨降り出でぬ
肘を張り毛糸編む癖亡き母に似て夜の部屋のガラスに映る
泥沼に太陽の浮ぶ油絵を置きゆけりわれのをらぬ間に来て
策もなく歩む道ばた濡らされし砥石のおもてなめらかに照る
再びは逢ふ日あらじと思へるに人は喚きつわれを詰りて
水鳥のむれ去りてよりあけくれに予感鋭く光る沼あり
くれぐれの裾にまつはる水明り沼尻まではゆきしことなし
訳もなく呆くる日ありわが立てる岸辺へ波の寄せやまずして
水晶の古りし印鑑来む年はよろこびごとに捺す日もあれよ
亡き母のコート別れし夫の袷さまざまの端布行李より出づ
蹄鉄のあとを求めてさすらへり何に憑かれゐし夢にかあらむ
予想など立てて危ふきなりはひに男ら声を嗄らしつつ呼ぶ
そそのかされし人も唆せし人も互に親し噂に聞けば
ガソリンを地下の倉庫に充たしたる給油所成りて日々に賑ふ
ガラス戸に湯気こもらせて雪の夜の煮炊きたのしむ姉と妹
霜割れの音ひびく森石人の台座のめぐり落葉は深し
語尾濁す癖を直せと言はれにき少女の日よりたゆたひやすく
シヤガールの海の青さを眼裏におし拡げつつまどろみゆきぬ
つなぐべき絆ならねどわが縫ひし護符など早く失ひたらむ
包丁の曇り拭ひて刻みゆく山椒の芽のはげしく匂ふ
骨格のどこか歪むと見て来し絵かの馬などが夜々に殖ゑゆく
噴水の伸び縮みしてきりもなし立ち去りがたき今のこころに
夜の湾に光るささ波詰まりゐし遠き記憶も消さむすべなし
急行を待ちゐる長き停車にて車内の人らさまざまに動く
枯れ葦のすきまに水の光るのみ舞ひ降りて来る白鳥もなし
割り箸をさきて一人の朝餉なす幾日の旅も終らむとして
薪割りし痺れが腕に残りゐて亡き父母の夢ばかり見つ
川水の錆びてたゆたふ橋の下流しやりたき思ひわが持つ
木の芽あへ食む夜は思ふ故里を捨てにし父母の永きかなしみ
草抜きし匂ひが指に残りゐて亡きはらからの夢ばかり見つ
崖下の家のあたりにとまりたる車と思ひ夜半を醒めゐる
現実のたれに似るとも思へねど悪運強き相を持つ鬼
ひとしきり猛りて落ちし野火を見つ夜の思ひの凪ぐ事もなく
夜の道に砂が置かれて影深し何をつぶやき来しかと思ふ
喪の羽織肩より脱ぎて坐りたり午後の仕事がわれを待ちゐむ
裸足にて歩む痛みと思ふ夜も尖塔は十字のネオンをともす
結び目をほどく如くに花こぼす木蓮も夜のまなかひに置く
何の木と知らずに過ぎし年月かこまかき落ち葉踏みつつ通ふ
坂道の白々と続きゐし記憶暗かりし海の色も忘れず
製材の音も歯ぐきにくひこむとよりどころなく臥す一日あり
潮鳴りの音を鎮めて眠らむに底知れぬ窪みなどが見え来る
方角をもたぬ砂丘のさみしさにただ海の方へ人はいざなふ
砂山を越え来し思ひはるけきにアカシヤの花錆びて吹かるる
松の木のうろこにしみて降る雨か黄の傘をさし子らのゆきかふ
物語の中の少女に言はしめし台詞にいつかわれも傷つく
白樺の実生の苗木届きたりまだ雪消えぬ甲斐の国より
首垂れて洗はれてゐる仔馬あり何にさみしきわれの心か
亡き父の在りし日を知るただ一人かの老記者も再びは来ず
うるみゐし輪郭のふと定まりて換羽終へたる文鳥の白
職員の一人変りて夕顔もサルビアの花も今年は咲かず
一片の紙に断たれしゑにしにて鳥のゆくへのごとく知られず
風船に運ばれて来し去年の種子今し紺碧のあさがほと咲く
蛇使ひの少年をかこむ輪もとけて脈絡のなき人波流る
腕時計読みあひて椅子を立ちゆけりいかなる夜の別離かあらむ
どのやうな連想を持つ妹か風鈴の音をはげしく厭ふ
藤の花の縫ひ紋残る亡き母の夏の羽織に風通し置く
間道に落葉焚く香のなづさへば住み慣れし街のごとく歩めリ
くちびるの厚き女として描く画家をうとめる思ひの去らず
透明の小箱かさねて卵売れりどこを向きても溝にほふ街
あざやかな斑を持つ蝶を見し夢もめざめの後の不安を誘ふ
巻尺をたぐりて人の去りゆけりダムの町は既に雪降るといふ
シチリアの島を彩る花と告げてスヰートピーの種子送り来ぬ
水枯れし林泉のほとりの日溜りに音なくあそぶ冬の小鳥ら
氷柱を凶器としたる物語読み終へて肩に来る冷え著し
梁に垂れゐる繩を怖れつつ仕へし家も義母もはるけし
コンクリートの大き塊うづめつつ道路工事の今日も続けり
鉄塔の傾きて来る錯覚も夜空をながく仰ぎゐしゆゑ
貝塚の跡しろじろと乾きゐてまぼろしの海はいづこより鳴る
ひしひしと芽吹きてあらむ輪郭のけむれる森を遠景に置く
醒めて聴く警笛の音遠ざかり次第に幅のせばまりゆけり
久々に語りあはむといふ便り薔薇の季節に来よと書き添ふ
卓上を飾れる花を分けあひて少女らもみな消え去りゆけり
くちずさむミニヨンの歌インコらの卵は何の色に孵らむ
鳥の羽の如き落ち葉をふりこぼすメタセコイアも旅ゆきて知る
明日の日の何占はむ山繭のみどりの粒を手にまろがして
あたたかく雪を被ける羅漢の中見知らぬ祖父の顔もあらむか
父母のこころも知らず蹄型の小さき磁石を持ちて遊びき
重き扉押して出づればたちこめし霧をへだてて夜の海は鳴る
音荒く通り抜けゆくトラックにかきたてらるるかなしみのあり
くらがりに灯ともすごとき水仙の花々も見て別れ来にけり
待ち針を数へ直しつつ寂しめば果て知れずして木枯渡る
染めあげし青のスカーフ野の風を呼びつつ乾く白日のなか
さまざまの角度に鏡の映りあひて騒がしき家具の売場過ぎゆく
埋め立てを終へし沼尻草萌えの色はいつしか砂磔を蔽ふ
貶めて帰りし人も寂しきか匂ひしみたる双手を洗ふ
太幹に黄の丸印書かれゐて樅の知らざる不安はきざす
父母の声よみがへる季節かと河原にながくタラの芽を摘む
偽りを言はねばならず言ひしあときらめく波の寄せ来るごとし
合歓の木の遅き芽吹きを待つ心二重星の位置を夜々に仰ぎて
ほの白き犬サフランの花置けば夜の机に風湧くごとし
打楽器の音のみ響き来るゆふべ自らを責むることにも倦みぬ
くらがりに次第に慣れて壁面の画鋲の一つ二つ見え来る
緋の魚のむらがりて来る夢なりき目ざめし闇に水の音する
夕凪ぎは沼を蔽ひて久しきに告げ得ぬ語彙のふくらみやまず
移民船に托して送る花の種子理非を糺さむ行為に遠く
やはらかく髪をほぐして眠らむに身を脅かす何事もなし
われらにて絶ゆる系譜を悔やまねどうすき縁に櫁花咲く
タラップに片足掛けて振り向けるかの夜の笑顔を再びは見ず
喪の花の打ち寄せられてゐる渚次第にこころ乾きて歩む
片袖の濡れゆくままに歩みつつ奪はれやすき立場も寂し
ガラス戸の雨のしづくに灯がともり一つ一つのわれを過ぎゆく
送られし素描に浮ける指紋幾つ遠き異変を伝へてやまず
鈴の音をまろばせて歩む猫とゐて失ふのみのくらしが続く
墓原のほとりに棲める年月に聞き分けてはげし鴉の言葉
門灯の光のなかに湧き出でてしろじろと何の花か咲きゐつ
車窓より見ゆるプールに色彩の溢れて音を聞かぬまま過ぐ
軒下に乾かぬものを殖やしつつ雨降れば雨に泥みゆくなり
朝々に黄色の錠剤飲みて出づ雨季を厭ひき別れし人も
蜃気楼など見ずに逝きたる父母ぞとながき停車に目ざめて思ふ
ゆくりなく心は憩ふ勾玉のくぼみに溜る埃を拭きつつ
咲き残るダリアの朱は小さくて夏の終りの雨にうたれゐる
ものの香のまつはるごとき日のゆふべ街に出でゆく用を作りて
触発を下待ちてゐたるわれかとも曇りの街を行きつつ思ふ
たのしみて待つこと淡き日々ながらレースの花の白々と満つ
みどり児の泣き声闇の奥にして空襲の夜の遠き記憶を呼ばふ
いづくにか月ありて明るき畦の道老いし狐のごとくしはぶく
妹とくらす月日に梟の時計も古りて鳴かずなりたり
磨きゐるガラスに透けて対岸の杉の梢のしきりに乱る
音荒く椅子たたみ人ら出でゆけり黒板の文字を一つづつ消す
金属のつめたき把手に触れて来て奈落のごとき夜を迎へたり
対岸の暗き木の間にたれかゐてフニクリフニクラ口笛に吹く
雨あとの光のなかに湧き出でて石蕗はけうとき香を漂はす
市果ててガラスの翼張りゐたる小さき天使も運び去られぬ
凭れゐる擬木の柱つめたきにのがるるごとく水は流れゆく
対岸の夕日に遠く屋根光り石切る音のをりをり届く
鍵穴のごときが不意に闇に見え疲れて帰る夜が続くなり
霧の夜に汽笛を鳴らすこともなく柩乗せたる船の出でゆく
葛の葉の襤褸まとひて立つ木あり魚臭をはこぶ霧ながれつつ
伏せておく白埴の壼返り咲くくさぐさの花を挿すこともなし
いつよりか工事場の灯にまみれつつ見なれぬ影をなす一樹あり
氷盤の割れ目に落ちてましぐらに沈めるものの輝きやまず
長命の手相もさびし新しき楽譜幾枚われにとどきて
唐突に電話が鳴りて眼先に人の使えるナイフかがやく
みどり児を抱ける写真送り来ぬリルケを好む教へ子なりき
椅子のまま沈みてゆける幻覚に水底のごとき風が流るる
塩はゆき木の実はみつつ一人ゐて継ぎめだらけの心と思ふ
石を積む作業のつづく道のほとり焚き火の跡のしるく匂へり
如何ならむ過去の苛みボンゴの音聞えて眠れぬ夜のあると言ふ
逆巻きて危ふき海を思ふ日にジャワの更紗の布は届きぬ
ふくらなる耳殻を持てる幼な子の積み木の城を築きて倦まず
わが持たぬ苛虐のこころフラスコに未だ生きゐる百足を覗く
思はざる悔やしみ湧きて開きたる五階をとりまく空間寒し
こだはればきりなきものを尉面のかげる間多き雨季は近づく
霊代を海中に燃すふるさとの習ひに似つつゆらぐ漁り火
鎮台の跡の草むら敷石を走る亀裂を見しのみに行く
芦の穂の乱れてそよぐまぶしさに帰らぬ人のことをまた言ふ
地を埋めて芥子の花湧く幻覚に朱肉の壼を閉ぢて立ちゆく
時の間の暗黒さへも許されず噴水の色は忽ち変る
医師の手にゴムの歯型を残し来てまぎれもあらぬわが夜の顔
泥亀のかさなりあへる橋の下腐蝕されゆく思ひに覗く
荒れやすき会話の中に次々に入り来るつぶてのごとき羽虫ら
出で入りのはげしくなれるドアが見ゆ次第に何の迫らむとして
花びらをたたむごとくにカナリアのむくろを包む白きガーゼに
人の手を借りねば癒えぬさびしさに疼く腕を吊りつつ通ふ
他意のなき言葉ならむと思ひ返す午後の薬を飲み忘れゐて
磯波の寄せては返し避けがたく蝕されてゐるわがどの部分
空間に垂れてしづまる虫のあり触るることなく今は過ぎゆく
風やめばしづまり返るほかはなき枯れ葦となり夕映えのなか
焦だちのいつかうすれてしなやかにリボンを結ぶ指を見てゐつ
登山用の鉈を人は買ひ爪切りの小さき一つをわれの買ひたり
ガラス戸を持ちあげて漸くかかる鍵眠らむとしてしばらく寂し
雪の夜につどへる一人声低くシベリアにある墓のことを言ふ
マッチの棒を頁に挟み立ちてゆく会はずにすまむ仕事にあらず
いつまでも待たむと決めて出されたる林檎嚙みつつ何処か寒し
底深くつながりてゐる島ならむつぎつぎに潮に隠れてしまふ
おもむろに手袋をはめて出でゆける若者の吹く口笛聞こゆ
風の夜の浅き眠りに揺れ出でて呪文のごとき韓国の文字
足首を吹く風寒く月かげを返して光る残雪のあり
びつしりと地を埋めゐし苔のいろ息苦しさに醒めつつ思ふ
あたたかき砂踏みゆけば幼ならのゑがく海にも春の来てゐる
靴べらを踵に入れし時の間に会ひたる悔いの身にひろがりぬ
体より心を病むとみづからに知りつつ雨の日も注射にかよふ
塩はゆきものを食みたき願ひなど眠らむとしてきざすさびしさ
白粥の上に張りたる膜の上かすかに湯気の廻りてうごく
フラメンコの踊り子らしき少女らの過ぎて明るき梅雨明けの坂
葬列の短かく過ぎて藁塚の藁の匂ひのたつこともなし
こまごまと花をつづれる黐の垣赤の葵はぬきんでて咲く
新しき叙勲の文字を彫り足して兵士の墓を今も野に置く
てのひらにまろばしてあそぶ二つ三つ巻貝は軽き音に触れあふ
髪の毛に何かまつはるごとき日を根つめて縫ふ厚きスカート
漆黒の喪の帯にふと浮き出づる水の模様を見つつつきゆく
いくばくの傾斜かありて流れたりコンクリートの床に降る雨
相会はぬ年月に何をゑがきけむ深藍いろの切符が届く
身動きのならぬ日あるをうとみつつわれを支へて数知れぬ糸
葦の間をゆるく流れて大雨のあとの芥をいづこへはこぶ
たれの住む家とも知れず石垣の土のほつれを今朝も見て過ぐ
どくだみの返り花咲き雨のなかに小さき十字花冠をささぐ
死に絶えしけものの棲める跡といふしろじろと蕎麦の花咲ける丘
のがれたき思ひに靴を探しゐる夢より醒めてもろく起き出づ
食べものの嗜好もいつか移りゐてコーンスープを久しく買はず
届きたるカラー写真にくちびるの黒く染まれるわれの顔見つ
工事場のかたはら過ぎて声高になりゐたる身を引き戻しゆく
降りやまぬ雨の時をり輝きてさ起るさまも見つつ歩めり
揉まれつつ花束の流れ去るを見つ帰るほかなし落ち葉を踏みて
ものなべて影にまみれてゆく時刻葛は音なく葉裏をかへす
降誕祭までには癒えむとはげまして枕べに置く冬のカトレア
たれを待つ夢とも知れず匂ひなき花のしろじろ暮れ残りたり
音楽を好む少年も戻りしか年の夜にチターをかき鳴らす音
身を低めしのぎ得しことみづからの力となして睦月朔日
目に見えぬ葛藤を身にくりかへし火にかざす手も細くなりたり
味気なく仕事なすときうづき来る奥歯も寂しコピーとりつつ
事務服をロッカーにしまひその奥に脱ぎたる顔の一つもしまふ
いくたびも地図をひろげて確かむる川のほとりのわれが住む町
辞書のたぐひ聖書もありてくぐもれる和音のごとくわれをとりまく
埋めたての人ら去りゆきパレットのかたちに白く暮れ残る沼
挑ましき思ひも湧かず二つ目の病名を身に告げられて来て
出で歩く日の稀にしてよくものを失ふことの今も変らず
夜の雪はタイヤ痕より解けはじめまた幾日か道ぬかるまむ
昼前の標本室のしづもりにジュラ紀の貝の乾きて並ぶ
呼びかはす野の鳥のこゑ美しき羽根をわが身は持つこともなし
包丁を今日は砥がせて新しき家に慣れゆく妹のさま
灰いろの何の花びら春を呼ぶ嵐の夜々に飛びかひやまず
血圧の昇るきざしかまなかひに風花の舞ふごとき野を行く
移り来てはじめてすごすきさらぎの十日椿の花咲き出でぬ
竪琴の弾き手のをとめ昨夜見たる輝きに遠くバスを待ちゐつ
木洩れ陽のかげりては差し一つ一つの恩誼といふに疲るる日あり
カナリアの家はいづこかピンカールはづしつつ聞く朝々のこゑ
ゆくりなく会ふ朝の虹薬入れとなりしバッグをいづこへも持つ
老いしるきインコに日ごと摘むはこべ白く小さき花持ち始む
わきまへのなき犬ながら限りなくまろびて遊ぶ注射のあとを
木の間よりまた戻り来る白の蝶遠き電話を聞きゐるときに
意表を突くことも言ひ得ず帰り来てレタス幾ひら真水にひたす
丸衿の紺の制服幾何を好む少女のわれはいづこへ行きし
電話なきくらしをかこつ妹の電話が入らばまた苦しまむ
まなうらをすべり抜けたる蛇のいろあざやかにして再びは見ず
うすら寒き日のくれに来て荷を置けり足傾けるベンチの上に
よみがへる言葉のごとくとぎれつつ校塔のチャイム川越えて鳴る
鋭角の衿の線朱の色に引き秋のコートの型紙を裁つ
思ふことみなあはき日を朴の葉の影をかさねてわが上に垂る
ガラス戸の花柄冴えて唇の灼くる季節もいつか過ぎゐる
レーズンをサラダの白にちりばめて嵐のあとのごときしづけさ
よごれたるハンカチを持つことのふと危ふくて駅の階下りゆく
うとましき思ひも稀のよろこびもあらはに言ふをわれは好まず
心なく人の傷みに触れゆきし言葉の機微を帰り来て思ふ
動く歯のいつか痛まずなりゐるとまたよりどなき寂しさは来る
夜もすがら吹きゐし風の音絶えてかたつむり幾つ地上にまろぶ
遠く来て何をもたらす鳩ならむ路地の日ざしにながくついばむ
癒えにくき病ひ庇ふといつよりか無頼よそほふことも身につく
スカートの裾直しをりいきいきと物言ふ日などわれに還るや
鶏を飼ひはじめたる家あるを言ひ出でて何を寂しむ汝か
欺けるもの皆滅びよといふごとく烈しき雨のひとしきり降る
片附けるといふ感じにて書き終へし稿を綴ぢつつ俄かに脆し
護符の鈴つね持つことも知られつつまた縛られむここの仕事に
フィルターの黄の円形を移しつつ鳩のうごきをいつまでも追ふ
隣より洩れくる議事のはげしきにひとりの声を聞き分けてゐつ
振り切りて帰らむとする夢のつね雪のはげしく橋灯に降る
醒めをれば厨に何をきざむ音はげしくなりてやがてゆるびつ
肘痛む時に思へりスイフトは予言してつひに人を死なしめき
発車待つバスにゐたれば対岸の日あたるビルは窓暗く見ゆ
押すこともあらず押されて歩む身をわれと笑ひて改札を出づ
目のしきり乾くと思ひ立ちあがりいたくぬくめる空気に触れつ
耳打ちをされたる少女何問ふとまっすぐわれを見つつ近づく
練乳をしたたらせゐて立つ湯気にまなじりうるみやすき日のくれ
十年目のわが犬のため朱の色の首輪サイズを確めて買ふ
去りゆきしをとめの一人の作りたる縫ひぐるみ今もわが棚に置く
消息を断ちて久しき人のためライン河の地図壁に貼り置く
失へる皮のブローチも出でて来て春のコートにアイロンを当つ
機械音くぐもる地下の書庫にゐて人の声よりわれは乱れず
階段を半ばのぼりて気づきたり今朝は左の膝の痛まず
通勤のバスの七分地獄とも極楽とも思ひ朝々揺られゐる
屋上にしづまりゐたる旗一枚不意によぢれて降ろされゆけり
散りがたの椿となりぬ楊貴妃とひとり名づけて見上ぐる日々に
遊歩路に灯の入れる見て帰りゆくたのむ思ひもかそかになりて
ちりぢりに睡蓮の葉の浮ける見え乗せたるごとく白の花咲く
口ほてる注射され来て癒えたしとはやる思ひもいつしか淡し
獅子舞の人ら去りゆき獅子が歯を嚙みて鳴らしし音残りたり
吊り橋の形さながら描かれゐる古地図にたどり信濃路を恋ふ
途中より切り離されて別れゆく短かき汽車は秩父に向ふ
開校の記念日近く鼓笛隊をはげます声の朝より聞ゆ
川岸の薊のつぼみぬき出でて毳にこまかき雨を溜めたり
紫のサリーの少女歩みたりひさびさに行く銀座のよひに
幾日経てよぢれし葉書戻り来ぬ行きしことなき那覇の町より
なづさひて苦しきときに候鳥の渡る夜空をテレビは見しむ
長く生きて安らひ難き手相とぞ菜を洗ひつつ刻みつつ思ふ
正面に見る日のなくて通ひつつ背高き石の像とのみ知る
印鑑の置きどころふと思ひたり橋のたもとまで人を送りゐて
ビニールの袋かさねてたたみつつ次第にやさしき曇り帯びゆく
香りよき石鹼に揉むハンカチの黄の薔薇なすをてのひらに乗す
振向きし時見据ゑられゆくりなく土蜘蛛といへる面に会ひたり
わが真上めぐる鳩あり仰ぎつつ風に乱れし髪をととのふ
歌垣の夜のごとき月のくぐもりに音をかさねて落ち葉降る森
時ならず雲間より日の差すに似て人はやさしくわれの名を呼ぶ
揺られつつまどろめる間に横顔のマダムマルセルまた見失ふ
含みたるチーズの舌につめたくてたはけのわれをうつつに返す
伴ふはたれとも知れず行く旅の夢醒めて見ゆる野川ひとすぢ
カーテンの白を怖るる心理など告げられてゐて他人事ならず
計数の誤りは消して直せば済む余計なことは言はずにおかむ
地に落ちし弾みにまろぶ樫の実の行方の一つだに見極めがたし
まざまざと義務の苦しさ句読点の全くあらぬ文を読みつつ
上野までの一時間がほどに思ひたることの大方降りて跡無し
温室の蘭見に来よといふ賀状幾たびとなく思ひてやさし
まろび出づる言葉の如し戸をあけて破魔矢の鈴の鳴る折々に
おもかげの遠くなりつつ鹿児島は火山灰降るといふ松の内より
使ひたる人みな在らず重いだけの手斧ふたたびくるみて蔵ふ
蜘蛛の巣にかからず落ちし樟の葉の地上の風にしばらくまろぶ
礼深く人の出で入る病室にリボンフラワーの赤なまなまし
タイプ室に午後をこもりてやりすごす人の心の見え渡る日は
サンプルに置きゆける事務室のシクラメン蕾抬げて次々に咲く
眼先のくらみたるとき蛍光管裂けたる音すとなりの部屋に
雪道に足を取らるる夢も見て訪ふ日はあらず遠きふるさと
曖昧にゐるわれを措き妹のきびきびと朝の身支舞ひをなす
蘭の名をあまた覚えて何にならむ罷り来てまた闇にまぎるる
閉館のチャイムが鳴りて少女らは歌ふごとくに挨拶しゆく
おぞましきまでに椿の散りしける道あり風の凪ぎたるゆふべ
街灯のまばらにともる路地を来て鳩時計鳴るはいづこの家か
とめどなく降り来て棕櫚の葉を鳴らす雪の寂しさ棕櫚の寂しさ
前後なくなりし記憶に火に巻かれ誰か無電を打ち続けゐつ
著莪の根に圧されて花の咲かざりしベゴニアの芽の土抬げゐる
千に刻み水に放てる大根のむきむきに沈むさまの華やぐ
顔寄せて窓を窺へばしろじろと触れむばかりに辛夷咲く枝
絹の裏をつけて着易く縫ひあげぬ働くときにまとふブラウス
紫の花咲く藻草売る少年日に幾たびも水を貰ひゆく
インク壺にインク足し来て坐りたり立ちゐたるまに何か乱るる
喪にこもる人を訪はむと選びつついづれの花のかたちも険し
雪柳の花こまごまと散りそめぬ帰ることなき犬の名を呼ぶ
風の無き一日を出でて反故を焚き古りし思ひのなべて燻らす
恙なく皆在りがたき季節かと知りびとの訃のつづけば思ふ
忘れ易くなりしあはれを人は言ひ遅れし本を返しゆきたり
いつまでも寒き春よと歩みゐて白のあやめの直盛りに遭ふ
水死者をとむらふ菊の黄も白もたちまち潮に巻きこまれゆく
熱風の季節怖るる文面にそぐはず青し絵はがきの海
牙むくといふことのなきわが上を弱しと決めて妹もゐる
靴べらを踵に入れしときのまに訪ひたる悔は身にひろがりぬ
おもかげにかならず逢ふと百地蔵めぐりゆきつつ次第に脆し
相合はばまたかなしみは噴くものを亡き人の名を唱へてやまず
遠き世の帰依さながらに藁火焚き今も祀るか家並み古りつつ
つまづきて足もとを見しときのまに身に憑きゐたる何か失ふ
雨あとをよぎる薔薇園黄の薔薇の咲きゐるあたり殊に明るむ
刈り伏せて十日余りか下草の羊歯はこまかき葉をもたげ来ぬ
混みあへる浴衣売場の人形は少し反り身に日傘をさせり
指先に力こもりて絞らるるレモンを見ゐつふと遠のきて
水いろの綿菓子を持つ児らのゐて一人は片手にぶらんこをこぐ
鳴る鐘はいづこの空か新しき剃刀をもて眉根ととのふ
水の輪が揺れ魚が見え児が叫び漂ひてゐる朝の目ざめに
キヤンプの時の赤き蠟燭ともしつつ停電の夜のめぐり華やぐ
何の木と分きがたきまで暗くなり声をおとして人ら語らふ
見覚えのある顔一つ夜汽車より降り来ぬスキーの身仕度のまま
替へてやる亡き犬の水朝々にかなしみてなす仕事の一つ
雪山を見て茫然とゐる写真背後よりとりて人のもたらす
空間を一直線にわれに来る向日葵の黄とその芯の黒
自動車の過ぎてしばらくそよぎあふ道べの草ももみぢしてゐる
傷口を縛り一夜を寝し指の乾きゐていつものやうに家を出づ
明日は休みと思ふ家路に渡されしビラもたたみて鞄にしまふ
トラックの尾灯と知れど幾つにも殖えつつ揺るる夜霧の奥に
ガス灯の形やさしきガラス壼葡萄いろの飴もてこよひは満たす
機械的な処理に慣れつつ稀にゐる家にてわれはいさぎよからず
通されていつものソファーに仰ぎ見る湖の絵もいつしか寒し
硝子ごしに計器のたぐひ光りゐて不吉にわれの名は呼ばれたり
放課後まで保つや児らが校門に築きあげたる雪のスフィンクス
読まれゐし日記のことを知らざりき十五年経て痣のごとしも
立ちゆける誰にかドアをあけられて部屋の空気のゆるむ感じす
黒鍵のエチュードに今日より入らむとしいたく小さし妹の手は
道を尋ねゐしが忽ち修道女の顔に戻りて歩み去りたり
階段から改札口へ殺気だちときに静けし人の流れは
雪山へバスを発たしめちりぢりに闇にまぎるる見送りびとら
連れのゐてつたなくものを言ひしこと時経て思ひ癒されがたし
思ひあたる理由といふもすべなきに臥しゐて右の腕のみ重し
白梅の若木植ゑたるわが庭にいち早く来よ今年の春は
雲を映す日の多くなりし水の上風は渡らふバリウム色に
届きたる供花の黄の薔薇活けてゐて虚飾のやうな窓の明るさ
クレパスは青のみとなり吹く風も野も真っ青に塗るほかあらず
門灯の一ついつより消えゐるかさだかにたれも覚えてをらず
出でゆけばすぐに隠れてたはむれにブザー押す子は幾人ならむ
身に近く置く縫ひぐるみ初めから吠ゆることなき犬などさびし
目の前につきつけられし感じにてカラジウムの葉の一枚そよぐ
身をよけて通らしめたるトラックに横向きに乗れる三頭の馬
硝子ごしに雨を見てゐて目の前のことに怒らずなれるに気づく
これ以上失ふものは残りゐず腕力のごとき力湧き来よ
聞きとれぬ遠きドラマに縄のやうな顎ひげのある仮面がうごく
街灯をかぞへつつ来て気づきたり悲しみをそれてゐたる時のま
指先がつららのやうに尖りゐきさびしき夢を見て起き出でぬ
遠くより青くともしてバスは来る帰りゆきてもたれもをらぬに
ひさびさの雨となりたり忌の明けに異国のやうな対岸の森
雨の音にとり巻かれゐて逃れ得ず激しくたれかわが名を呼べよ
窓により見てゐる雨は絵のやうに白き斜線を引きながら降る
手巾にアイロンの余熱あてながらまたとめどなく思ひ墜ちゆく
眠るとき必ず思ふわれの位置運河ふたすぢこもごもに光る
灰いろの葡萄つるくさきりもなくつなぎてゆけり眠りのなかに
雪の嵩も昨日のままか花びらの欠けたるネオンこよひもともす
買ひやらむ妹はゐずこの冬の色あたたかき布地を見てゆく
銀いろのポールが立ちてゆれゐたり旗のあがらぬ今日の静けさ
腋寒く見てゐるものを啼くこともあらずうかべる白鳥のむれ
そのほかの費し方を問はずしてわがために生を終へし妹
定規あてて罫をひきゐる間だけ何もかも忘れてゐしかと思ふ
生きてあらば如何に歎かむ幾種もの薬のみつつ起きゐるわれを
消し忘れし灯の家にある如き一日こゑ励ましつつわれは仕事す
草むらの底にみひらくこの春のたんぽぽの花も妹は見ず
輪郭のたしかなる影ひきゐると気づきぬ信号に立ちどまるとき
遠く行く旅もかなはぬ予後の身を人はいざなふ札所めぐりに
伎楽の面の内側にあく瞳孔の深く小さし二つならびて
分身のごとくにありし欅の木芽ぶきて大きひろがりをなす
ときのまに春雷は過ぎ明るむを呼ばひて出でむうからもをらず
栗の花の匂へば雨になるといふ雨の日曜はさびしきものを
リストよりラフマニノフと思ひゐて急に効きくる眠り薬は
醒めゆかば如何にかさびし少年の聖歌コーラス澄みて続ける
散りしける売子木の花みなよごれゐておもたし傘も左手の荷も
断ち切られまた繋がれてすべ知らぬ思ひに今日は彼岸会にゆく
思はざる花びらの嵩芍薬のうすくれなゐの一つ崩れて
黄の花の終らむとしてとりとめもあらず乱るる薔薇の垣根は
いとけなく伴はれ来しその子とも睦みつつ剥くしたたる桃を
白桃の季節去年よりしづかなるわれかと思ふ水に浮けつつ
この夜はいづちの山か届きたるはがきににじむスタンプの青
風邪のあとの幾日たゆく勤めゐて本の倒るる音にも脅ゆ
白樺に似る林とぞ少女らの調べ当てし木の名ナンキンハゼノキ
秋海棠を好みしうからみな在らず土やはらかし墓への道は
売られゐる秋の野菜の美しさ厨のことにうとく過ぎつつ
二枚の刃をかさねておけばしづかなるかたちと思ふ机上の鋏
進みぐせの柱時計と知りながらおどろきやすし休みの日にも
見つからぬままにすぎつつ妹のよく嵌めゐたる珊瑚の耳環
夢のなかの約束のごとはかなきに詣でむトルコ桔梗を買ひて
春分の日ざしとなりてわがゆくて紫いろに砂利の浮きたつ
われの身に香の匂ひのするといふ噎せてひさしく香を焚かぬに
ラ・パロマの目覚し時計また買はむやさしくなさむ朝の思ひを
針柚子を椀に浮かしてなす夕餉何を食べてもひもじきわれか
谷深くたづさひ降りし日のありき栃の実を机の上にころがす
どのやうに角度変へてもわれのゐて鏡に映る範囲灰いろ
襟もとのさびしき朝か鏡のなかのわれにかけやる銀の鎖を
さわだてる木立の上を流れつつ粗き縞なす何の煙か
考へてもどうにもならず道ばたの菜の花は半ば実となりてゐる
さし潮の色となり来る見つつゐて河の向うはわが知らぬ街
はるばると来しわれのため幾たびも言ひて曇れる入江を見しむ
相輪のあたり煙ると思ふまで次第につのり塔に降る雨
植ゑ呉れし人も来ずなりはじめての花低く咲く蛍石蕗に
迷ひたるのみに終れど幾日経て痩せしと思ふ指環抜くとき
寄せ置ける落葉を鳴らす夕の雨俄かに秋の深む思ひす
昨日のことのやうに思へど白萩の倒れてゐしはいづこの道か
二十年先のことなど言はれゐてわれにはさびし明日のことさへ
出おくれてひそめる鳩の如き日か風出でてまた棕梠の葉が鳴る
昼も夜も竹の落ち葉を聴くのみの日日と告げくるまれの便りに
伴ひて渚に貝を拾ひつつ訛りのとれしわれをさびしむ
音もなく舞ひくる雪の幾ひらはしばしとどまるコートの胸に
二重硝子のかなたさわだち帰らざる時を刻むか寄する波さへ
曇りのまま日は暮れむとし灰いろの布一枚となる冬の海
辞めてどうなる当もなき身にいつまでも退職願の汚れしを持つ
手を使ふ職場と思ふ指の先割るる季節のはやめぐり来て
耳もとを去らずめぐるは今朝見たる石蕗にゐし蜂かも知れず
ウインドウに売れ残りゐる湖の絵にも降りゐむこよひの雪は
穂に立ちて照りゐし朱美今朝あらず南天はうすく雪を溜めつつ
背後よりきらめく波を見たるのみ寒かりし海の記憶も古りぬ
生き死にもさだかならぬに夢に来てわれをさいなむ昔のままに
木枯のなか行くときに身に沁みてわが持つ傷よ千の過失よ
戻り来てドアとざすときわが庭の沈丁の花はいまだ匂はず
気負ひてなす仕事の如し文房具のくさぐさを身の回りに置きて
人の持つ生活は知らず訪ね来て口数多きはどのやうな日か
縫ひあげてふたたびさびし待針を色分にして挿し直しつつ
呼ばれたる車に乗りぬ陥穽はわが内にのみあると思ひて
容易には誰もやめられぬ職場ならむ勤務表に名を入れつつ思ふ
雪どけの水たまり一ついつ見たる古りし鏡の如くくぐもる
洗ひたるレースの花を整へつつ何して見ても手の渇く日よ
砂利掬ふ音は粗しと聞きながらかきまぜらるる如くにゐしか
破りたる約束に似む景品のダリアの種も蒔かずに終る
牙のあるけものの夜々に通ふとふ道をおほひて深き笹原
公園の柵を出づれば風の坂白鳥ならぬ身はバスを待つ
人と会ふ仕事なしつつ口腔の荒れゐる意識をりをり還る
檜葉垣の秀の黄に萌えてゆらぐさま硝子戸ごしに花の如しも
乾き易くなりしてのひら気にしつつ持つもの多く朝々を出づ
何に使ふ石とも知らず運びたるいにしへびとに似て在り通ふ
残像の消えがたき日と思ひたり萼のみとなれる桜を見つつ
果たし来し仕事といふも敢へ無きにいまだ灯ともす隣のビルは
雨傘に身を庇ひつつ歩みゐていつより蟹の匂ひをうとむ
苦しみも過ぎて思へばきれぎれに見たるドラマの画面のごとき
堰を切りなだるる如き思ひよりふと浮き出でてこよひは眠る
テラスより見おろす街も秋めきぬビルのあはひに白煙あがる
台風の進路を示す矢印のかなたの海もあをくたそがれてゐむ
待たれつつせかれつつなす宵々の荷作といふもわが身に応ふ
阻まれて目をあげしとき木のやうに伸びて茂れる山牛蒡立つ
街路樹の黄ばみ早きは何の木か屋根のみ見えてバスの行き交ふ
この部屋の矩形を全世界として出で入るはわが死人はらから
雨の夜の冷ゆる空気を嗅ぎてゐて古りつつ痛む傷かと思ふ
表皮より剥きつつ使ふ幾朝にキャベツの軽くなるにもあらず
鳴り出づるチャイムを待ちてゐるわれか稀の家居に水使ひつつ
真っすぐに立つといふこのさびしさよ花の終れる向日葵の茎
五階より見おろす夜明け街灯はうすらみどりになりて消えたる
働きて互みに経たる十年に美しかりしタイピストも老いぬ
洗車場より出づる車に心まで清めしごとき助手席の顔
帰り来て帽子をぬげば絵に見たる原人もわれの顔もかはらぬ
働くことは縛むること煩悩の人より濃ゆきわがあけくれに
いくたびも浅瀬を渡る夢なりき水青かりき月の光に
権力に屈するごとく屈するを病のゆゑといへどさびしむ
はればれと歩むならねば午後三時ビルのあはひの暗がりもよし
われの持つ弱味と言はむさだかなる理由なくては何もなし得ぬ
見しことのあらぬオーロラ見たる日をたのしげに言ふ傍にゐる
食べよとも寝よとも誰も言はざれば目をしばたたく夜の明近く
残業に倦める一人か立ちゆきて回転ドアの光をまはす
おのづから強制力を持つならむ声やはらげて言ひても同じ
もう一人のわれは冷く客観すしどろもどろになりゐるわれを
身一つを遊ばしむるにつたなくて駅のほとりの辛夷も終る
見し夢の名残りのごとく十日経ていまだはなやぐ蘭ニ茎は
強かりし男の子もなべて滅びにき矛ふりかざし風化石像
さわだてる身を薬もて鎮めつつ決断といふも理窟にすぎず
労働にすさむは言葉のみならずレモンの酸は舌先に沁む
夏薔薇の小さくなりて咲く見れば今に残れる思ひの如き
見ゆる間は立ちて見送るわが習ひ別れがたくて立つさまに似む
スプリンクラーの霧の高さの整ひて芝生に無数の虹立ちはじむ
思はざる高みへ視線のゆく日にて篠懸の秀を渡る風見ゆ
念凝りて石となりしといふきけばまだまだ浅きかなしみならむ
暑き夜のまどろみに見る夢にさへふるさとの山は雪をいただく
コーヒーの香にたつ真昼合歓の木の作るやさしき木蔭もあらむ
思はざる高みへ視線のゆく日にてみづきの花の真盛りに遇ふ
信号に堰かれてをれば目の前はしづく垂りつつ待つ冷凍車
台風の惨を伝へて厚板のごとく流るる水とし言へり
過ぎにしはなべて夢とよ花咲ける萩のしげみに道をふさがる
葉がくれの青木つぶら実候鳥の持ち来し苞のごとく色づく
堰を切りて流れたき日かもの言はぬことも思はぬ力を要す
機械さへ悪意もつかと思ふまでテレファックスの像定まらず
表情を崩すことなく聞き終へてぐらぐらとせり立ちあがるとき
太陽に頭上を通過されしのみと読みたり無為を歎く言葉に
両の手を合はせし闇をうち振ればほろほろと鳴る印度の鈴は
数へ切れぬ傷と思へど磨きたるガラスの向うは草萌えの丘
肩口より冷えつつ醒めてきららかに身に帯びゐたる鱗もあらず
早梅の咲くころならむ薬品の名も新しく知りて癒えゆく
手を振りて別れ来にしが本名を告ぐることなく長くつきあふ
待つことも仕事の一つビルの上に奇形の雲のながくとどまる
枝先の鵙を見をれば意識して危ふきことをなすかと思ふ
わが今の立場思へば毛皮などをなべて剥かれし寒さのごとき
雪の夜のいづこともなくとざされておもたき鉄の一枚扉
語りあふさま座席より仰ぐとき牙のごときを人間も持つ
会ひがたき人となりたり約束の一つをわれの果たしし日より
蜂や蛾を怖れつつ野の家に棲むモノドラマもあと三月の間
ゆく末の如何になるとも今見ゆるかの波だけは越えねばならず
書かれゐしは何の数字か黒板を拭き消して午後の会議を始む
振動の激しき電車誰もみなひびわれて立つてゐるのかも知れず
おもむろに心移して生きゆかむゑのころぐさを抜きつつ帰る
積乱雲あはく燃えつつ暮れむとす窓をしむればわが小世界
四トン車に詰めて預け来し書物あり如何にか積まむ新しき家に
遡行する時間のごとしメトロノームの音のみさせて暫くをれば
覚えにくき人の名を言ひて海彼なる軍の蜂起をニュースは伝ふ
子犬より長く生くるとも決まりゐず頭を撫でやりしのみに戻り来
山茶花の白冴ゆる日よ雪国にうまれし性を今に保ちて
鳥かぶとの花買ひ持てば香にたちて毒にあくがれ来し日も久し
灰皿を清めて人を待つごとき思ひにゐたり夕食のあと
くらがりに麻か何かを綯ひゐたりめざめてほめくてのひら二枚
思はざる恵みのごとく暖かき数日ありて風邪も癒えなむ
香を焚くほかあらぬかなたのしみの待つ如く帰り来りし家に
父母の墓さへあらぬふるさとの馬の祭りをテレビは見しむ
しどけなく笑へる写真幾枚もとられてゐしは暴力に似る
散らばりし意識の跡も敢へなくて昨日書きたる文字正しゆく
終りさへすればとのみに励む夜をくり返しつつ年逝かむとす
裸馬の一頭戻りくるシーン夕焼け沙漠を背景として
知らざりし一面見せてゆるやかにベビーカーなど押して歩むよ
告げざれば思はぬことと等しからむ告げずに思ふ事の殖えゆく
外側から変ふるてだてもあるらむか同じ形に髪の整ふ
ほころびを繕ふごとく在り経たる五年と思ふ忌の日を過ぎて
光線のゆゑかも知れず位置替へて仰ぐ塑像のふとゆるみたり
聴衆の一人とあれば安けきに汗あえてバッハを弾くピアニスト
ほどく人のときめきを思ひ花びらのかたちに赤きリボンを結ぶ
内よりの力に割れし卵かと籾殻を分けてゐる手が怯む
なりふりなどかまはずならむ年齢を怖れて思ふ髪を巻きつつ
悪霊を払ふが如く呼ぶごとく藁を焚く火の燃えあがりたる
ねぢ釘を探す箱より出でて来て何の鍵とも知れず小さし
みどり児をいだく重みもわが知らず帳簿かかへて廊を往き来す
庇はむと思へるひまにあらだてて人はうとましき性分を持つ
事務室の外はまた雨直ちには答へぬ習ひいつよりか持つ
はかどらぬこよひの仕事不揃ひの紙の裁ち目の気になりてゐて
粉チーズ砕きて振りてグラタンの皿を使ふも幾月ぶりか
四日目の夕に熱の引きて醒む何も歎かず経し百時間
甲虫の如くにもがきゐしわれも見てゐたる貌も覚むればあらぬ
かすかなる花粉の匂ひ地に湧くと夜のくらがりを行くとき思ふ
あたたかき夜霧のかなた街の灯は粒子撒きたるさまに散らばる
天気予報を聞かむラジオは夜桜につどふこよひの人出を伝ふ
夜の海に降り込む雪を思ひゐていつしか眠る病みて十日目
吊られゐるもののさびしさ店先のレインコートの裾ひるがへる
パパイアの持ち重りするたのしさも長く続かず混むバスにゐて
抜け道を探してゐしか夢のなかのわれは諦め易くくぐまる
蜂蜜の底のこごりもゆるみ来としたたらせをりケーキの上に
山の桜のみごろを知らせ来し手紙持ち歩みつつ四月も過ぎむ
みちのくの干潟思へば草の穂も秋の気流になびかふころか
古びたるメジャーの狂ふことなくてほどよく決まる釦の位置は
賜びにしは花の賑はふ鉢なりき葉のみしげれる秋のベゴニア
ポストへ寄らむ為に数分早出して見知らぬ人とバスを待ちあふ
湖をめぐる短き旅も果たし得ず今年の秋のはやく更けゆく
盂蘭盆の終らむとして年々におとなひ呉るる人も移ろふ
あるを願ひあらぬを知りてゆく日々に返り花咲く額紫陽花は
堕ちてゆく思まざまざと身にあるを思のみにて終へしめむとす
存在が即罪悪と畏れたる若き日ありき雪深かりき
亡き人に庇はれて今もあるならむあはれまれてもあらむと思ふ
いそしみていそしみてなほ足らざるは時間のごとし力のごとし
コップのなかの嵐と思ひ至るまで時間をかけて苦しむあはれ
秋の日の澄み徹りゐる道を行き神隠しにわが遇ふにもあらず
綿の雪しろじろとまとふ空間を俳優ひとり立ち去りゆけり
ぬけ出でていづくへ行かむ月明にひとすぢ光る水路のあらば
照準の不意に定まりくれなゐに芙蓉の花の咲く道に出づ
人づてに聞きたることのあやなすをたしなめて雨の陸橋を越ゆ
惑はしの声のごとしもゆく末をつくづくと思ひ見よといふ声
吹き荒れし嵐なりしがこのままを往けよと如く落ち葉が匂ふ
守られて生きたる日なきわが上にいたくやさしきいざなひの声
急速に興味失ひゆくことの失意に似つつ別れ来りぬ
この家の二度目の冬に入らむとし今朝よりはボアの上衣を纒ふ
行跡を晦ますと謂へりわが日々に晦ますほどのこともなし得ぬ
シベリアの冬を思ふは囚はれて橇に乗りたる記憶のごとし
人の持つさびしさは知らぬゆきずりに暗かりし顔の暫し離れず
汚染に強き植物といふ坂の上の篠懸もいつか色づきて来ぬ
かぐはしきブバリアの束花嫁の持つ花と言ひて供華に賜ひぬ
怖るるを知るはいつの日幼な子は蛇のかたちをゑがきて倦まず
切りかへす言葉を包みゐる日々にまざまざと錆びてゆく刃見ゆ
実験室にガラスの光る秤見え何の重さかはかられむとす
掘りあげむ球根一つあらぬこと思ひてありて百舌に鳴かれつ
なりはひと割切りて言ふ声聞けば恥多くしてわれら働く
ヒッピーの起は十年前と言へりながく生くればさまざまに遇ふ
どうなるか胸騒して聞きゐしが言へば気のすむことかも知れず
買ふ方が早からむなどさびしむに手袋の片方未だ出で来ず
こだはれば眠れざらむと知りてをり書棚から文庫本一冊を抜く
しろじろとさびしき夢を見るならむ風邪の薬の誘ふ眠に
クイーンの切手貼られて届く手紙雪の故国を恋ふると告げて
別れたる死にたる人らみな若くをりをりの夢に入り来るはよき
降りやまぬ雪に思へば運命を分けたるごとき一夜さありき
エアカーテンの遮る外気いくばくか八時間労働われに始まる
思ひきりそれてゆきたき衝動を抑へつつゐて人に知られず
地下道に雨を避けつつ歩みゐて言葉すくなし伴ふ人も
物憂くて幾日ありけむ今宵よりは巻き込まれゆかむ仕事の渦に
横にうごくものばかりなるやましさに街は夕の影深めゆく
平安の待つわが家とも決まりゐず署名なき手紙今日は来てゐる
喪の家を示す矢印いつよりか貼られゐて見知れる苗字を記す
見てはならぬ場面の如し床の間の菖蒲にわが目をしばし遊ばす
思惑の渦なすなかに身は置きてとりとめのなきわれと知られず
珊瑚礁といへる明るき海域は思ふのみにて訪ふ日も無けむ
ゆとりあらば何なすならむか金銭の遊びといふをわれは好まず
暑き夜に見し夢のなか光る目をのぞかせてわれはアラブの女
よぢのぼり塀をこえたる瞬間にまぶしきライト浴びて目ざめつ
意識してへだてがましくなすことも今のひとりを守らむがため
山里は人かげあらず石仏をただの石のごとく道ばたに置く
五線譜をたどりつつ歌ふ少女ゐてロシア民謡らしくなりゆく
スパカコール鏤めてゆく指先のわが手ともなくこまかにうごく
旅に出づる錯覚などは持ちがたし今朝もこみあふ東北線は
あかあかと昼もともして人はみな古りにし傷を庇ひ働く
なすことのなべてよぢれてゆく如き思ひに仰ぐもじずりの花
いにしへの葡萄文様を雲に見て電車にゐたり土曜の午後は
簡潔にくらさむとのみ願ひ来て壁に貼リおくルオーも古りぬ
赤錆びの砂漠ばかりをこえゆきて夢にも人に会ふ日はあらず
いつまでも空一面に貼られゐて鱗の光りあふごとき雲
さまざまに願ひたゆたひ木の如く豊かに立つといふ日もあらず
人の声の弾みてゐるに合はせつつ次第に合はせにくくなりゆく
九回目も勝ちしボクサー今はただ休みたしとのみ言へりと伝ふ
錯覚にすぎざりしことのよみがへる曇る眼鏡を拭きつつをれば
またぎきに聞くわが言葉胴体を拭き抜けてゆく声の如しも
全きを願ふならねど築きてはまた崩す塔のごとき仕事よ
三歳の児の父といへりねたましきまでに燿ひサーブを打てり
たれの吹くフルートならむ光りつつ亀裂を伝ふ水を思はす
とどこほる思考のなかに入り来て不意に口あく納蘇利の面は
思はざるゆとりの如し菜を洗ひ湯のたぎる待つしばしの間
しろじろと乾く日多き県道も土の色なす時雨のあとを
砂などの濡れて詰まれる重さかと晴れぬ思ひを運びて帰る
生者死者あまたの声に呼ばはれて騒然とあり夢の醒めぎは
かなたなる海の入り日にきはだちて大き寝釈迦の如し砂丘は
構へたる歩みとなりぬ速力をおとして迫る車のあれば
とのぐもる空のいづくかに月ありて背すぢ光らせ犬の集まる
とざされて幾日ありけむ目の前の氷を割らば何か出づるや
菜を漬けて目分量の塩を打ちゆくにほどよくくぼむこの掌は
わが書ける図書館のニュース広報に読みて心の開くもあはれ
さまざまの匂ひ嗅ぎ分け生きて来しわれかと思ふ蘭を嗅ぎつつ
俯瞰して見ゆる範囲に黄に塗られ何を限れるひとすぢの柵
待ち長き思ひのごとし花つけて宙にしづまりがたき穂先は
生きものの何かがゐたる気配して筧の水のうすく濁れる
ひとすぢの水路に隔てられてゐる町が見ゆ階を降り来ても見ゆ
角印を一つ捺すにも平均に力の入ることは少なし
いつとなくギプスに固められきたる心のごとしながく勤めて
落ち葉焚く火に近づきて見てあれば炎は風に片寄りて立つ
くぐもりて幾夜をあらむ渡されし名刺ほどなるかなしみ持ちて
かりそめにナイフ研ぎゐてまとひけむ鋼の匂を気にしつつ立つ
突き刺して共に死なむと思ひしか若かりし日も遠くへだたる
一日は二十四時間ありたりとつとめやめし友の切実に言ふ
反射的にひるがへりまたひるがへり何か試してゐる魚と見ゆ
片仮名に戦死の土地の名を記す碑のかたはらは妹の墓
兵隊の位にすればなど言ひて人はよはひをまざまざと見す
はろばろとゆく雁見れば明日死なむ人とも知らず物を言ひゐき
足垂りてリフトに昇りゆきにしがかの夕より帰らずといふ
雲がゆき雲の影ゆく草原に逝きにし人のなべて恋ほしも
ほきほきと枝をおとして活けをれば季節はづれの小菊もやさし
体ごと傾けて何を聴く人かをりをりかげる表情を見す
白檀の香のする店にわれひとり筆を選びてひそかにゐたり
黄ばみたる梔子を捨てなめらかな日ばかりならず六月も逝く
残業を終へて出で来てゆくりなく七夕の夜の賑はひに会ふ
用の済みほとりと受話器置きたればなべて終れる如きしづけさ
再びも三たびも折れて戻りくる生くる限りの意識の回路
一人分といふに慣れつつ珈琲豆を挽く作業などたちまち終る
風落ちて夕日さし来ぬ出でゆかば遠くの山の見えゐるならむ
明日の日を怖るる要などなくならむ職をひきたる後を思へば
宴のあと幼きわれに重かりし大皿などはいづちゆきけむ
落ち入らむ予感にさとく来しゆふべ刃先隠してナイフは売らる
雨あとの光みなぎりけものみち風の道みな笹原のなか
ストーブを消すもともすもわが仕事独りの部屋のみ冬づきつつ
花びらのとがれるにさへ脅ゆると聞けどはるけし病む人のうへ
近づきて見れば色あひさまざまの鯉ゐる水の騒々しけれ
全身の醒むるに間ある朝まだき何か黄色のかたまりが見ゆ
うつ向きてゐる日の多く床を這ふコードの色はみなねずみいろ
秋草の枯るる匂ひの湧きのぼる野道を行けり忘れむとして
返り咲く枝にまばらにつきゐたる浜なすの実もいつしかあらず
わが身より何かの抜けてゆく如し遠ざかりゆく雲を見をれば
坂道にかかりて重き乳母車かかる重さも知らで過ぎ来し
描きかけて照葉樹林の分布図もありしと伝ふ遺品のなかに
寄せ植ゑに森をかたどる盆栽の欅のうれもかすかもみぢす
夜の更けに厨ごとなすわがならひ音をしのびて皿を抜きつつ
いつ見たる門とも知れず夢に見て椿散る坂をのぼりゆきたり
喪の家をやうやく今日は訪ひて来て夜の思ひのはつかになごむ
亡き父も故郷に老いて雪の野に成る木責めなどしていまさずや
遠縁に職業軍人一人ゐき騎兵大尉を人ら畏れき
病院へ行くと職場を離れ来ていづこへ寄るといふにもあらぬ
ふくよかに湯浴みなしたるみどり児の匂ひと思ひすれ違ひたり
春の雲のふくらむ見れば錯誤さへ身に華やげる日のありにけり
夜の汽車に行きし日ありき春日野の万灯会にもながく参らず
胸ふたぎ出でて来にしが抜き出でてたんぽぽそよぐ常の道なり
面壁とはおのれに向ふことならむおのれといふも単純ならず
声立てずひと日ありしが電話来て笑へばわれと顔のあかるむ
マンゴーの実を掬ひをり松やにの匂ひのするとひとり思ひて
音もなく霧の湧く野を帰り来ぬゆふべのミサも終らむころか
桜桃のころに生れしわれといふ実桜の木も伐られてあらず
いづこなる春のうしほに育ちたる若布か水に浸せば匂ふ
太々と葉をひろげゐてクレパスに児のゑがきたる水仙の花
目覚ましの電池の切るる頃ならむ不意に思ひて落ちつかずなる
絨緞に音を吸はせて何事をなし来し人か歩み去りたり
背後など母に似て来しわれならむ狼煙を仰ぎゐるとき思ふ
タクシーの窓のガラスの幅だけの帯のやうなる枯れ野を行けり
人の手に刻まれて立つ像ながらはろばろといます観音像は
分れ道とふ地名の残り青々と雑木の原の萌えわたりたり
雨あとは虫の祭の日ならむか蛾も蝶も出でてはたはたと飛ぶ
横文字を石に刻める表札の古りていかなる外人の住む
あたたかきゆふべを帰るわが上を今年はじめて蝙蝠が飛ぶ
つぎつぎに朱の色を噴くサボテンの花の速度にもわれは及ばぬ
母のいまさば問ふことあらむ遥かなる火祭の夜を恋ひつつ眠る
はろばろと幟なびけて虫送りの行列などはいづち行きけむ
火をつけて放つ矢などは持たねども美しからむ夜空に曳きて
ループタイに何のメダルか光らせて歩むならむかかの人なども
人の声頭上より降り電線を持てる工夫の地上にもゐし
透明の縄にいましめられてゐてわれならぬ声にもの言ふ日あり
襟もとをゆるむるやうにほぐれゆく花菖蒲見てひと日見飽かぬ
明けそめて沼のほとりのうすあかり思ひつつまた眠らむとする
一枚の古りし名刺に乱されてこころもとなくゆふべををりぬ
昼過ぎてまたたどきなく眠りゆく術後熱とぞ聞きて知れども
隣室の声意味なしてはげしきはわが耳冴ゆるたそがれのころ
雲を見てひと日ありしが山の端はげんげの花の色に染みゆく
誰がためのいのちと問ひてはかなきにわれの病の日毎癒えゆく
渋滞の車さへ今こころよく退院せるわれの運ばれてゆく
病院を出づれば秋のたつきあり藁を焚く香の道になづさふ
親猫と子猫とむつみゐたるのみ陽ざしあまねき枯れ野を渡る
全開の音量といふも知らず経て雨の夜更けに聴くモーツアルト
旅行きて遭へるくさぐさ聞きをれば北上川に降る雨も見ゆ
くくり椿運ばれゆけり癒えし身に通ひ慣れたる道も新し
降り出づる気配言ひつつ別れ来ぬ互みの傘を確かめあひて
ケニアなど行く日もなくて終らむか縞馬の絵を見をれば思ふ
いつとなく人に頼れるわれならむ部品の名など覚えてをらず
新米といふを賜ひぬとぎをればとぎてゐるまにこころしづまる
ふるさとを同じ北国と知れるのみはだれのやうな雲の湧く日よ
病室は六畳ほどか出で入りに薔薇の匂ひの乱されやすし
点滴の痕を幾つも身に持ちて縛られやすく日々の過ぎゆく
浮世絵の波の色よりなほ青く幾年も見ぬ海がひろがる
横顔のまま歩み去る像ならむ髪の飾りの羽毛が白し
手の届く範囲にものを置く習ひ乱丁の辞書もかたはらに置く
暖房の部屋に置く供華たちまちに心やつるるさまに衰ふ
言ひつのる口もとを見てゐたりしが次第にわれの戦意失ふ
いくひらの椎茸を水にもどしおきわれにしづかに年暮れむとす
似かよへる顔を探して何にならむ石仏はみな雪をかづける
旅先の雪に作れる雪うさぎ庭石にのせて別れ来にけり
白梅は咲き終りたれ福寿草のつぼみニ粒いまだ開かぬ
亡きあとの月日流れて梁にかかれる大き魚拓も古りぬ
黄の花の多き季節よ人は去りまばらに墓の取り残されぬ
日曜は目ざましも鳴らず病院の朝のめざめの如きしづけさ
花も葉も夜は閉ざすとふ草の名を数へあぐみてなほ眠られぬ
ゆるやかに鰭をゆらして魚のゐるけはひと思ひ夜半を醒めゐつ
しはぶける一人まじへて幾人か坂のぼりゆく夜の人声
夜の鳥のかすかに鳴きて過ぎしあと家のめぐりのしづまり返る
いまだ見ぬうすずみ桜思ひゐてわが目の前のふとくらみたり
わが住むは平野のもなかくれがたに見ゆるのみなる何山ならむ
バスに見て過ぐる校門偶像のごとく崩れし雪の像置く
われの道蝶の道目に見えねども古地図に江戸の街路ととのふ
しろじろと煙ひろげて朝より川の向かうは何をか燃やす
絵本見てゐたる児の忘れゆきにけむ玩具の鳥を誰かの鳴かす
稚魚あまた一夜に死して水面に散りたる花のごとく浮かべる
人の持つ習ひに似むかかたまりてやがて散りゆく魚を見てゐし
釣り人の老いたる見れば亡き父の釣り竿などのいかになりけむ
いつの日の逢ひとも知れず石仏の肩に夕陽の届きてゐたる
つね仰ぐ欅の木ぬれて宿り木の黒きかたまりなす夕まぐれ
幾つものトンネルを抜けて旅ゆけば改まる如しわれの思ひも
しろじろと谷のへに咲く何の花と見分かぬ速度に汽車は過ぎゆく
未だ雪の残れる木の間山神をおろしまつると里人の寄る
山あひの棚田のほとり木造の小さき校舎ありてしづもる
能登の浦は夕凪のとき遠く来て人に負ひたる傷も癒えむか
旅人と何か変はらむ血縁のひとりさへなき故郷に泊てて
堂深く窓の明りに仰ぎ来し十一面観音は目とぢても見ゆ
若草いろのデミタスカップ旅先に妹のありし日をまた思ふ
それぞれの闇をまとひて立つ木々に混りて立たばわれは何の木
蕗の葉の大きく開くしづけさに石の手を組む石の羅漢は
くろぐろと森の芯より暮れそめてきらめく如きひぐらしのこゑ
目の下に短き橋のかかりゐて身ぶりさまざまに人の行き交ふ
人の声やいばをなすと聞きをれば真実胸のへの痛みくる
言ひ出づることにあらねど思ひゐてわが切先のひらめきはじむ
ゆで玉子をむきつつあれば指先のいつしか荒れて秋は来向かふ
夜に入りて雨呼ぶ風のはげしきに門火も焚かで送りまつりぬ
肩のへのまろやかにしてつめたけれ花を捨てたる壼を拭へば
野菜籠をさげて歩めば主婦の顔に見ゆるならむか日傘のなかに
乾きたる砂に半ばをうづもれて貝殻はみな海の傷持つ
銀いろのタンクの遠く見ゆる窓何の合図か送られやまず
香水の匂ふ石鹸あわだてて勤めを持たぬ朝のしづけさ
むらさきに片照る山よ秋づきて雲のかたちのやさしくなりぬ
ふるさとに夜泣き石とふ岩ありき思ひ出づるは霧の夜ばかり
傍らにありにしものを鳥などの飛びたつやうにわれを去りにき
眠られぬ夜とまたならむ柩に入れし手毬の色のよみがへり来て
指先の動き思はせベルベットの薔薇はやさしく花びらを巻く
幾重にも鏡に映るシャンデリア何におもたきわれの思ひか
敷き置けるムートンの白小羊のかたちに立ちて歩む夜なきや
古傷を胸に持つゆゑあらかじめ言葉飾りて防がむとせり
電線のどこかもつれてゐたりしがいつしか地上の闇にまぎるる
働きて過ぎにしひと世嘆かねどみ胸ゆたけしマリアの像は
もみぢして明るき木の間道標も立たず岐るる道ありにけり
背後よりのぞき来にしが少年の拇指におさへてゐたるパレット
抜け穴の出口の如く草深き窪みのありし道を来りぬ
誇張されて伝へられゐることあらむ秋の薊は紫の濃き
年の瀬の賑はひのなか喪の帯を小さく結べる人と連れだつ
こもりゐの正月と電話に答へつつみづからを諭す言葉の如し
オルゴール短く鳴りて鳴り終へぬ人のをらざる隣の部屋に
ひっそりと何か煮詰めてゐる如し亡き母のひとり厨に立ちて
買ひ戻すこともせざりし父祖の田を埋めて雪は降りつもりゐむ
一気に遠き職場となれどたまひたるライターはつね傍らに置く
いつ使ふ指とも知れず春立ちてひびわれやすし右の中指
焼け跡を映す画面にただ一つ椅子のかたちの燃え残りゐし
会釈して若き尼僧の過ぎしあと白梅の花のうつすらと湧く
枯れ草の底より風の湧くごとし釣り人はみな孤独のかたち
救はるる思ひのごとし戒名の清き妹の墓に参れば
ひと刷毛の雪の残れる墓原の枯れ葉鳴らして鳥の飛び立つ
嘆きつつ一夜をあればかたはらの孔雀の羽根は大き目を持つ
桟橋の下も荒海たえまなく波のひびきは胸もとに来る
坂道を降り来てより道暗し余熱のごとき悔いも過ぎゐる
もやもやに写し出されて木の如しあばらといふを持てるわが胸
胡蝶蘭の最後の鉢も枯れしめぬ風邪がちに冬も終らむとして
ひとりゆく旅のさびしさ浜名湖は風にたわみし水見えわたる
春の夜の雨ともあらず音あらく降りつぐ雨を聴きて醒めゐし
落葉松の芽ぶきのときに来会ひたりしろがねなして雨の渡らふ
水濁る運河のほとり気がかりを散ぜむすべもなくて歩めり
旦夕に追れりと知るみいのちのとめどもあらず雨降りしきる
急がねばならぬことあり急ぎても間に合はざらむ涙出でくる
石仏の肩もつめたくおはすらむ八重の桜を散らす雨降る
声あげて泣きて醒めしが現にも夢にもおはす先生ならず
先生のいまさずなりて三彩の馬の置き物を見るはさぶしも
み柩に黄菊白菊入れまつるこの世の顔をよせあひにつつ
みそなはしいまさむと思ほえて橋に掛ける歩度ゆるみたり
仕へたる三十四年ひとたびも叱り給はざりしことも思ほゆ
東京へ出づる日つづきこの夏は夾竹桃の白も喪の花
われのみの知れる忌の日の巡り来て今年の梅雨は未だあがらぬ
ゆるやかに二つ寄りゐし流灯の早瀬となりて相別れゆく
何を売る嫗と知れず立ちゐたり母かと思ふ姉かと思ふ
精霊舟の燃えて流れてゆきにしが醒めて思へばふるさとの川
いくばくを眠れるひまにうすらなる繭をかけゐき小さき虫は
逃げ水の幾つをバスに越えにつつゆきつく先もおほよそは見ゆ
日ぐれとも朝ともつかぬ薄明につつまれて死といふはあるべし
断ちがたく思へることをそのままに雲大いなる高原に来ぬ
標高を問ひつつゆくに山国の紫陽花の毬はいまだ小さし
花の香にまみれて過ぎて見返れば黄菅の色の原がひろがる
駅の名を見落として過ぎてあわつるも常のことにて荻窪に来つ
みちのくの訛りある声後方にしてゐしがバスはトンネルに入る
曲り家は今も残ると伝ふれど馬のにほひを久しく嗅がぬ
美容院の午後四時大き男来てリースのゴムの木の鉢を置く
腕力も年毎に衰へゆくならむ片手には重き辞書となりつつ
ドアの外は夕焼けの街信ずるよりほかなく医師に励まされ来ぬ
限られし視野と思へど鯖雲のうろこは遠くひろがりゆけり
似合ふとふレースの服を着て出づる今日の講座の滑らかなれよ
起き出でて靴を履くまでの一時間あわただしかりし朝々ありき
曼珠沙華の花はテレビに見たるのみ秋の彼岸も終らむとする
傾きて立つ松林秋の海の風見の羽根はすぐひるがへる
熱気球は忽ち遠くゴンドラに振るハンカチのひらひらも消ゆ
返り咲くはまなすの花見て来しにやいばの如く光る波寄す
砂山を降りてほどきて体温よりかなり冷たき手と思ひたり
吊り皮に男の立ちて夕凪の海の見えゐし視界ふさがる
先生のいまさぬ思ふ仙台の駄菓子のねぢり折りてはみつつ
早馬を駆りてゆきなば何を見むサラブレッドは目の前を過ぐ
人形の斬られてがばと打ち伏せばいづこかわれの関節ゆるむ
石鹸の匂ひのあらぬ石鹸もこころもとなし今朝の寝醒めに
結論のまろびて出づることなきか瞼の重き日の続きをり
ナレーションの絶えし画面に音もなく噴水三基もりあがりゐつ
方向音痴のままに終らむひと世とも見知らぬ坂を従きて登れり
持ちあがらぬ大き袋は何なりし何を運びゐし夢かと思ふ
水玉を小さくあげて沈みたり薔薇のかたちの砂糖二粒
目分量の塩を掴みて振りゆくにしなふは菜ともわれとも知らず
道の上に不意に日ざしの濃くなりて鈴懸の木の影を踏みゆく
持ち時間幾何われに残れるやハングライダーを飛ばす若きら
春の日は傾きそめてゆるやかに弧を描きつつ波の引きゆく
土手の上を駆けゐる子らの影絵なす一時ありて海暮れむとす
バスの来てその儘乗りて行きにしが真顔に何を告げむとしたる
東京の空にひばりのあがる見て電車は王子の駅に入りたり
日本は如何なる国かフルートを吹ける異人のをとめに思ふ
いくたりを見送りにけむ遍路して果てむ願ひのよぎることあり
十四年ゐたる犬なり今会はば生きてゐし日のままになつくや
しづかなる夜となりたり届きたる大判の辞書を机に置きて
うづもるる思ひにをればテレビの中の陽明門にも雪降りしきる
夕焼けを見むと二階の戸を繰れば川原を埋めし雪も染まれる
遠景に相争へるさま見えてそのまま雪にくづほれゆけり
行き違ひになりたるのみと知るまでにまた重ねたる歳月ありき
かなしみの漸く過ぎてしづけきに前触れもなくまた何が来む
つらなれる古墳の丘は稜線のけばだつさまに芽ぶきそめたり
桐の実の鳴ることもなく立つ見ればあはく渦なす思ひも過ぎぬ
植ゑぬ田のかたちに芦の枯れ残る広野の道をバスにゆれゆく
病むことは何もせぬことたゆたひて繭なす雲を窓に見てゐる
駅前に駐在所ありてふるさとは雪解の水のささらぐころか
風邪に寝て一日をあれば知らざりし日中の音のくさぐさ聞こゆ
黒豆を煮て浮く灰汁をすくひつつすくひ切れざる澱もあるべし
好奇心の強い子と言はれ育ちにき日に幾たびも辞書を引き寄す
こみあへる葉をぬきんでし著莪の花紫と黄のまだらがあはし
乱るるはわが言の葉よ噴水の風に吹かれてひろがりやまず
幾月か空き家となりてゐし軒に風鈴吊られうれしげに鳴る
ユツカ蘭のまだ珍しきころなりき移り住みたる大宮に見き
夕焼けに染まるガラスを見てをればつくねんとわれは黒き塊
背後より襲ふがごとくかたはらをすりぬけて行きし無灯自転車
呼びとめて何ひさぎゐし人の影ビルのあはひに吸はれてゆけり
リラの雨くちなしの雨と過ぎゆきていま軒を打つ夕立の雨
気にかかりゐたりしが今朝の外電は事故によるとふ死因を伝ふ
つねよりも大きく見ゆる路線バス暗き顔のみ乗せてとまれる
一滴の黄の除光液たちまちにコットンに吸はれてまるく広がる
マニキュアをしをれば不意に騒立ちて時雨の音の窓を過ぎゆく
かなしみの身に添ふごとし夜の更けて盆燈籠を組み立てをれば
眠られぬ病を持ちてコーヒーも紅茶のたぐひもいつしか飲まず
行き止りに幾度も出会ふ夢なりき最後は如何になりしや知れず
砂利はじく音をあらはに人声の絶えししじまを自転車行けり
気のつけば指輪ゆるめる薬指思ひ痩せつつ夏過ぎむとす
病みをれば思はぬいとまの湧く如しモーツアルトをFMに聴く
うす味の食事にも慣れてゆくらむか心もとなきことばかりなる
ゆるみゐるコートの釦そのままに出で来て遠しバスまでの道
つくばひに苔むしてゐつ隙間なく十薬は生ひて花かかげゐつ
ちぎり絵を始むと言へり捗りてたのしからむとわれさへ思ふ
拾ひものをせし如き今日の暖かさトルコ桔梗はみな開きたり
上空は風あるならむ音立てて木の実降りつぐ落ち葉の上に
真っ黒の牡牛は目のみ光らせてにれがみゐたり油彩のなかに
所在なくバス待ちをればたかむらは風のまにまに透きて明るむ
うす皮を一枚一枚剥ぎゆきて何に到らむわれとも知れず
刻印を打たれし材木積まれをり小さき駅舎を出でて来つれば
ゑのころ草吹かれゐるのみ石仏はすでに祠におはさずといふ
欄干は鉄のつめたき手を打ちて呼べば寄り来る鯉ありにけり
棕櫚縄の切り口未だ新しき筧と見つつ木戸よりの道
さまざまの花押を繰りて見てゐしが滅びて人の残すかたちよ
漂ひてゐし夢のなか去るものは声も立てずに身をひるがへす
のがれ得ぬ罠にかかれるわれならむ結果はたちまち原因をなす
あきらめて眼鏡拭きをれば点かざりし蛍光灯の音してともる
いづこよりうつされて来し風邪ならむ臘梅の花も匂はずなりぬ
救はるる魂をわが持たざれば十日病みたる顔をとがらす
強がりを言ひて来にしがネックレスはづせる襟のときのま涼し
忘れゐし記憶を呼びて飴いろに古りたる竹の物差が出づ
霧吹きて根元うるほす朝々にシンビジュームは絹のつや持つ
ナビゲーション リンクのスキップ
形成
無題
こもごもに語り疲れて夜の更けぬひとりのわれとなりて眠らむ
たれよりも饒舌なりしわれと思ふ夜の更けてより響く潮の音
夕かげに光りてゐたる貝殻も夜の満ち潮にひたされてゐむ
去なばまたいつ来む海ぞ朝もやの霽れゆくを永くかかりて見ゐつ
事故の夜のざわめきの中カンテラに鬼面のごとき顔照らしあふ
面影の老いてつきとめ得ぬままに大き楽器を背負ひ去りたり
幾たびか夜霧の原に出でて呼ぶ放れし小犬呼ぶごとくして
傷口にしきりに蠅の寄るごとく何の夢見てうとみゐたりし
めざむれば蹼欠せて繃帯を巻きし右手が投げ出されゐつ
糖蜜を煮詰めて雪の日をこもり母ありし日のごと硝子曇らす
年齢の差だけ後れてかなしまむ妹か白のコートなど着て
ゆくりなく視界ひらけて枯れ原に夜すがらともす鶏舎幾棟
森深く潜める夢の醒めむとす風はブザーの音を呼びつつ
雪渓の祟り怖るるわれを措き発ちにき再び逢ふ日なかりき
日を選び新しき服着て出づる人に知られぬ祈りにも似て
ひとしきり逸る焰の音聴けば暖炉などにも脅かさるる
ガーゼもて仔犬の耳孔拭ひやる風邪癒え難き日のたゆたひに
木枯に醒めて思へり風の夜は星が美しと言ひて歩みき
ゆきずりに交はす言葉も潤ふと花終へし木瓜の垣をめぐりつ
色褪せし花忽ちに散りし花さまざまにわれのこころを乱す
さすらひの心朝よりきざしゐて枯れ木を踏めば音のはろけさ
いつの日に入れしままなる指貫か雨衣のかくしより出づ
蜂蜜の凍てもいつしかゆるみゐて朝のパン食む日あたる縁に
さかしらを言ひ来し心寂しきに青き靄刷く夕べの坂は
気になりてゐし事務服の釦などつけかへて日直の昼も闌けゆく
カレー粉の匂ひをつねに纏らせ事務室に来る炊婦も老いぬ
観音に似せてマリアを刻みつつ何祈りけむいにしへびとら
濃密に層なす闇と思ふとき植ゑ並められし若木が匂ふ
巣を高く張り替へてゐる蜘蛛に会ふ漂ふごとくありたき時に
篠原のかなたに家の建ち始め夜々みどり児の泣く声がする
換算し得る年月と思はねど償ひ呉れむと言ふ人ならず
待ちて得しもの幾ばくぞ十年目白髪の目立つ君を見しのみ
涙もろくなりし心かバスを待つ広場の人のいきれの中に
転換を計り呉れむとする汝か緑色濃き地図をひろげて
糸切れて畳にこぼれて珊瑚珠を拾ひつつ心華やぐとなき
森に来て誰か吹き習ふトランペット笑ひ合ふまで心直りつ
過信して今しばらくは生き得むか花の模様の服地選りつつ
母の櫛父の時計も土にいけて去りゆく心定めむとする
山椒のつぶらに赤く実る庭移り来し家に幸待つごとし
花闌けしニツコウキスゲの群落を過ぎて烈しき夕立に会ふ
湖のほとりの野菊濡らす雨耳覆はれて荷馬過ぎゆく
前の世の沼のごとしと見てゐたり曇り映して澱める水を
伴はれ旅ゆくこともなかりしと別れし夫を思ひつつ寝る
道ばたに模造の真珠売られゐるまづしき街も過ぎて旅行く
遠き世の殺戮のあとの野と言へり石鏃拾へば刄のこぼれゐる
いつの世に沈められたる鐘ならむ沼のほとりの夜々に聞ゆる
遠くにてガラス割れたる音せしがわれもいらだつ心を持てり
口紅をさして貰へば帰りゆくまだ目のあかぬ仔犬抱き来て
鉄分のぬけぬ井戸水瀘して汲み住み慣れゆかむ萩咲く家に
粗壁のまま入りて住む一家族女童の声を夜々にひびかす
暗闇の地平に野火を這はせゐてわれを脱け出でし如き人影
スプーンの箱覆したる残響のきらきらとして一夜続きぬ
あたためしナイフもてパイ切らむとし酸ゆき果実の香が蘇る
笹原の起伏の奥に蛇を祀る祠ありて細き道が続けり
重油かけて共に燃やさむ年々にわれの窪みに溜まる落ち葉も
喪の家を指す矢印にみちびかれ沙羅散りしける垣に添ひゆく
ひとしきり潮に輝き消えしとふ亡き子のホルン沈めしと言ふ
隙のなき論も寂しと聴きゐたり膝に置きたる両手が懈し
地境に柵をめぐらす計画の進みつつ日々に草生色づく
スノーボートに運ばれゆきし死者の後冴々と画面に映る雪山
橋灯のほとりに立ちて待つ時間かのときめきは還ることなし
夜の森を飛び立ちてゆく鳥の声もの縫ふわれは針を磨けり
舶来の化粧水など置きゆけり言はぬ歎きを見透かすごとく
飾り窓に残れる銀の十字架を見届けて夜のなぐさめ淡し
立ち向ふ心何時しか湧きて歩む何が端緒といふにもあらず
何のせても同じ目盛りを指す秤今の間に測りておく物なきや
ワイヤーをひきずる如き音せしが何事もなく雨降り出でぬ
肘を張り毛糸編む癖亡き母に似て夜の部屋のガラスに映る
泥沼に太陽の浮ぶ油絵を置きゆけりわれのをらぬ間に来て
策もなく歩む道ばた濡らされし砥石のおもてなめらかに照る
再びは逢ふ日あらじと思へるに人は喚きつわれを詰りて
水鳥のむれ去りてよりあけくれに予感鋭く光る沼あり
くれぐれの裾にまつはる水明り沼尻まではゆきしことなし
訳もなく呆くる日ありわが立てる岸辺へ波の寄せやまずして
水晶の古りし印鑑来む年はよろこびごとに捺す日もあれよ
亡き母のコート別れし夫の袷さまざまの端布行李より出づ
蹄鉄のあとを求めてさすらへり何に憑かれゐし夢にかあらむ
予想など立てて危ふきなりはひに男ら声を嗄らしつつ呼ぶ
そそのかされし人も唆せし人も互に親し噂に聞けば
ガソリンを地下の倉庫に充たしたる給油所成りて日々に賑ふ
ガラス戸に湯気こもらせて雪の夜の煮炊きたのしむ姉と妹
霜割れの音ひびく森石人の台座のめぐり落葉は深し
語尾濁す癖を直せと言はれにき少女の日よりたゆたひやすく
シヤガールの海の青さを眼裏におし拡げつつまどろみゆきぬ
つなぐべき絆ならねどわが縫ひし護符など早く失ひたらむ
包丁の曇り拭ひて刻みゆく山椒の芽のはげしく匂ふ
骨格のどこか歪むと見て来し絵かの馬などが夜々に殖ゑゆく
噴水の伸び縮みしてきりもなし立ち去りがたき今のこころに
夜の湾に光るささ波詰まりゐし遠き記憶も消さむすべなし
急行を待ちゐる長き停車にて車内の人らさまざまに動く
枯れ葦のすきまに水の光るのみ舞ひ降りて来る白鳥もなし
割り箸をさきて一人の朝餉なす幾日の旅も終らむとして
薪割りし痺れが腕に残りゐて亡き父母の夢ばかり見つ
川水の錆びてたゆたふ橋の下流しやりたき思ひわが持つ
木の芽あへ食む夜は思ふ故里を捨てにし父母の永きかなしみ
草抜きし匂ひが指に残りゐて亡きはらからの夢ばかり見つ
崖下の家のあたりにとまりたる車と思ひ夜半を醒めゐる
現実のたれに似るとも思へねど悪運強き相を持つ鬼
ひとしきり猛りて落ちし野火を見つ夜の思ひの凪ぐ事もなく
夜の道に砂が置かれて影深し何をつぶやき来しかと思ふ
喪の羽織肩より脱ぎて坐りたり午後の仕事がわれを待ちゐむ
裸足にて歩む痛みと思ふ夜も尖塔は十字のネオンをともす
結び目をほどく如くに花こぼす木蓮も夜のまなかひに置く
何の木と知らずに過ぎし年月かこまかき落ち葉踏みつつ通ふ
坂道の白々と続きゐし記憶暗かりし海の色も忘れず
製材の音も歯ぐきにくひこむとよりどころなく臥す一日あり
潮鳴りの音を鎮めて眠らむに底知れぬ窪みなどが見え来る
方角をもたぬ砂丘のさみしさにただ海の方へ人はいざなふ
砂山を越え来し思ひはるけきにアカシヤの花錆びて吹かるる
松の木のうろこにしみて降る雨か黄の傘をさし子らのゆきかふ
物語の中の少女に言はしめし台詞にいつかわれも傷つく
白樺の実生の苗木届きたりまだ雪消えぬ甲斐の国より
首垂れて洗はれてゐる仔馬あり何にさみしきわれの心か
亡き父の在りし日を知るただ一人かの老記者も再びは来ず
うるみゐし輪郭のふと定まりて換羽終へたる文鳥の白
職員の一人変りて夕顔もサルビアの花も今年は咲かず
一片の紙に断たれしゑにしにて鳥のゆくへのごとく知られず
風船に運ばれて来し去年の種子今し紺碧のあさがほと咲く
蛇使ひの少年をかこむ輪もとけて脈絡のなき人波流る
腕時計読みあひて椅子を立ちゆけりいかなる夜の別離かあらむ
どのやうな連想を持つ妹か風鈴の音をはげしく厭ふ
藤の花の縫ひ紋残る亡き母の夏の羽織に風通し置く
間道に落葉焚く香のなづさへば住み慣れし街のごとく歩めリ
くちびるの厚き女として描く画家をうとめる思ひの去らず
透明の小箱かさねて卵売れりどこを向きても溝にほふ街
あざやかな斑を持つ蝶を見し夢もめざめの後の不安を誘ふ
巻尺をたぐりて人の去りゆけりダムの町は既に雪降るといふ
シチリアの島を彩る花と告げてスヰートピーの種子送り来ぬ
水枯れし林泉のほとりの日溜りに音なくあそぶ冬の小鳥ら
氷柱を凶器としたる物語読み終へて肩に来る冷え著し
梁に垂れゐる繩を怖れつつ仕へし家も義母もはるけし
コンクリートの大き塊うづめつつ道路工事の今日も続けり
鉄塔の傾きて来る錯覚も夜空をながく仰ぎゐしゆゑ
貝塚の跡しろじろと乾きゐてまぼろしの海はいづこより鳴る
ひしひしと芽吹きてあらむ輪郭のけむれる森を遠景に置く
醒めて聴く警笛の音遠ざかり次第に幅のせばまりゆけり
久々に語りあはむといふ便り薔薇の季節に来よと書き添ふ
卓上を飾れる花を分けあひて少女らもみな消え去りゆけり
くちずさむミニヨンの歌インコらの卵は何の色に孵らむ
鳥の羽の如き落ち葉をふりこぼすメタセコイアも旅ゆきて知る
明日の日の何占はむ山繭のみどりの粒を手にまろがして
あたたかく雪を被ける羅漢の中見知らぬ祖父の顔もあらむか
父母のこころも知らず蹄型の小さき磁石を持ちて遊びき
重き扉押して出づればたちこめし霧をへだてて夜の海は鳴る
音荒く通り抜けゆくトラックにかきたてらるるかなしみのあり
くらがりに灯ともすごとき水仙の花々も見て別れ来にけり
待ち針を数へ直しつつ寂しめば果て知れずして木枯渡る
染めあげし青のスカーフ野の風を呼びつつ乾く白日のなか
さまざまの角度に鏡の映りあひて騒がしき家具の売場過ぎゆく
埋め立てを終へし沼尻草萌えの色はいつしか砂磔を蔽ふ
貶めて帰りし人も寂しきか匂ひしみたる双手を洗ふ
太幹に黄の丸印書かれゐて樅の知らざる不安はきざす
父母の声よみがへる季節かと河原にながくタラの芽を摘む
偽りを言はねばならず言ひしあときらめく波の寄せ来るごとし
合歓の木の遅き芽吹きを待つ心二重星の位置を夜々に仰ぎて
ほの白き犬サフランの花置けば夜の机に風湧くごとし
打楽器の音のみ響き来るゆふべ自らを責むることにも倦みぬ
くらがりに次第に慣れて壁面の画鋲の一つ二つ見え来る
緋の魚のむらがりて来る夢なりき目ざめし闇に水の音する
夕凪ぎは沼を蔽ひて久しきに告げ得ぬ語彙のふくらみやまず
移民船に托して送る花の種子理非を糺さむ行為に遠く
やはらかく髪をほぐして眠らむに身を脅かす何事もなし
われらにて絶ゆる系譜を悔やまねどうすき縁に櫁花咲く
タラップに片足掛けて振り向けるかの夜の笑顔を再びは見ず
喪の花の打ち寄せられてゐる渚次第にこころ乾きて歩む
片袖の濡れゆくままに歩みつつ奪はれやすき立場も寂し
ガラス戸の雨のしづくに灯がともり一つ一つのわれを過ぎゆく
送られし素描に浮ける指紋幾つ遠き異変を伝へてやまず
鈴の音をまろばせて歩む猫とゐて失ふのみのくらしが続く
墓原のほとりに棲める年月に聞き分けてはげし鴉の言葉
門灯の光のなかに湧き出でてしろじろと何の花か咲きゐつ
車窓より見ゆるプールに色彩の溢れて音を聞かぬまま過ぐ
軒下に乾かぬものを殖やしつつ雨降れば雨に泥みゆくなり
朝々に黄色の錠剤飲みて出づ雨季を厭ひき別れし人も
蜃気楼など見ずに逝きたる父母ぞとながき停車に目ざめて思ふ
ゆくりなく心は憩ふ勾玉のくぼみに溜る埃を拭きつつ
咲き残るダリアの朱は小さくて夏の終りの雨にうたれゐる
ものの香のまつはるごとき日のゆふべ街に出でゆく用を作りて
触発を下待ちてゐたるわれかとも曇りの街を行きつつ思ふ
たのしみて待つこと淡き日々ながらレースの花の白々と満つ
みどり児の泣き声闇の奥にして空襲の夜の遠き記憶を呼ばふ
いづくにか月ありて明るき畦の道老いし狐のごとくしはぶく
妹とくらす月日に梟の時計も古りて鳴かずなりたり
磨きゐるガラスに透けて対岸の杉の梢のしきりに乱る
音荒く椅子たたみ人ら出でゆけり黒板の文字を一つづつ消す
金属のつめたき把手に触れて来て奈落のごとき夜を迎へたり
対岸の暗き木の間にたれかゐてフニクリフニクラ口笛に吹く
雨あとの光のなかに湧き出でて石蕗はけうとき香を漂はす
市果ててガラスの翼張りゐたる小さき天使も運び去られぬ
凭れゐる擬木の柱つめたきにのがるるごとく水は流れゆく
対岸の夕日に遠く屋根光り石切る音のをりをり届く
鍵穴のごときが不意に闇に見え疲れて帰る夜が続くなり
霧の夜に汽笛を鳴らすこともなく柩乗せたる船の出でゆく
葛の葉の襤褸まとひて立つ木あり魚臭をはこぶ霧ながれつつ
伏せておく白埴の壼返り咲くくさぐさの花を挿すこともなし
いつよりか工事場の灯にまみれつつ見なれぬ影をなす一樹あり
氷盤の割れ目に落ちてましぐらに沈めるものの輝きやまず
長命の手相もさびし新しき楽譜幾枚われにとどきて
唐突に電話が鳴りて眼先に人の使えるナイフかがやく
みどり児を抱ける写真送り来ぬリルケを好む教へ子なりき
椅子のまま沈みてゆける幻覚に水底のごとき風が流るる
塩はゆき木の実はみつつ一人ゐて継ぎめだらけの心と思ふ
石を積む作業のつづく道のほとり焚き火の跡のしるく匂へり
如何ならむ過去の苛みボンゴの音聞えて眠れぬ夜のあると言ふ
逆巻きて危ふき海を思ふ日にジャワの更紗の布は届きぬ
ふくらなる耳殻を持てる幼な子の積み木の城を築きて倦まず
わが持たぬ苛虐のこころフラスコに未だ生きゐる百足を覗く
思はざる悔やしみ湧きて開きたる五階をとりまく空間寒し
こだはればきりなきものを尉面のかげる間多き雨季は近づく
霊代を海中に燃すふるさとの習ひに似つつゆらぐ漁り火
鎮台の跡の草むら敷石を走る亀裂を見しのみに行く
芦の穂の乱れてそよぐまぶしさに帰らぬ人のことをまた言ふ
地を埋めて芥子の花湧く幻覚に朱肉の壼を閉ぢて立ちゆく
時の間の暗黒さへも許されず噴水の色は忽ち変る
医師の手にゴムの歯型を残し来てまぎれもあらぬわが夜の顔
泥亀のかさなりあへる橋の下腐蝕されゆく思ひに覗く
荒れやすき会話の中に次々に入り来るつぶてのごとき羽虫ら
出で入りのはげしくなれるドアが見ゆ次第に何の迫らむとして
花びらをたたむごとくにカナリアのむくろを包む白きガーゼに
人の手を借りねば癒えぬさびしさに疼く腕を吊りつつ通ふ
他意のなき言葉ならむと思ひ返す午後の薬を飲み忘れゐて
磯波の寄せては返し避けがたく蝕されてゐるわがどの部分
空間に垂れてしづまる虫のあり触るることなく今は過ぎゆく
風やめばしづまり返るほかはなき枯れ葦となり夕映えのなか
焦だちのいつかうすれてしなやかにリボンを結ぶ指を見てゐつ
登山用の鉈を人は買ひ爪切りの小さき一つをわれの買ひたり
ガラス戸を持ちあげて漸くかかる鍵眠らむとしてしばらく寂し
雪の夜につどへる一人声低くシベリアにある墓のことを言ふ
マッチの棒を頁に挟み立ちてゆく会はずにすまむ仕事にあらず
いつまでも待たむと決めて出されたる林檎嚙みつつ何処か寒し
底深くつながりてゐる島ならむつぎつぎに潮に隠れてしまふ
おもむろに手袋をはめて出でゆける若者の吹く口笛聞こゆ
風の夜の浅き眠りに揺れ出でて呪文のごとき韓国の文字
足首を吹く風寒く月かげを返して光る残雪のあり
びつしりと地を埋めゐし苔のいろ息苦しさに醒めつつ思ふ
あたたかき砂踏みゆけば幼ならのゑがく海にも春の来てゐる
靴べらを踵に入れし時の間に会ひたる悔いの身にひろがりぬ
体より心を病むとみづからに知りつつ雨の日も注射にかよふ
塩はゆきものを食みたき願ひなど眠らむとしてきざすさびしさ
白粥の上に張りたる膜の上かすかに湯気の廻りてうごく
フラメンコの踊り子らしき少女らの過ぎて明るき梅雨明けの坂
葬列の短かく過ぎて藁塚の藁の匂ひのたつこともなし
こまごまと花をつづれる黐の垣赤の葵はぬきんでて咲く
新しき叙勲の文字を彫り足して兵士の墓を今も野に置く
てのひらにまろばしてあそぶ二つ三つ巻貝は軽き音に触れあふ
髪の毛に何かまつはるごとき日を根つめて縫ふ厚きスカート
漆黒の喪の帯にふと浮き出づる水の模様を見つつつきゆく
いくばくの傾斜かありて流れたりコンクリートの床に降る雨
相会はぬ年月に何をゑがきけむ深藍いろの切符が届く
身動きのならぬ日あるをうとみつつわれを支へて数知れぬ糸
葦の間をゆるく流れて大雨のあとの芥をいづこへはこぶ
たれの住む家とも知れず石垣の土のほつれを今朝も見て過ぐ
どくだみの返り花咲き雨のなかに小さき十字花冠をささぐ
死に絶えしけものの棲める跡といふしろじろと蕎麦の花咲ける丘
のがれたき思ひに靴を探しゐる夢より醒めてもろく起き出づ
食べものの嗜好もいつか移りゐてコーンスープを久しく買はず
届きたるカラー写真にくちびるの黒く染まれるわれの顔見つ
工事場のかたはら過ぎて声高になりゐたる身を引き戻しゆく
降りやまぬ雨の時をり輝きてさ起るさまも見つつ歩めり
揉まれつつ花束の流れ去るを見つ帰るほかなし落ち葉を踏みて
ものなべて影にまみれてゆく時刻葛は音なく葉裏をかへす
降誕祭までには癒えむとはげまして枕べに置く冬のカトレア
たれを待つ夢とも知れず匂ひなき花のしろじろ暮れ残りたり
音楽を好む少年も戻りしか年の夜にチターをかき鳴らす音
身を低めしのぎ得しことみづからの力となして睦月朔日
目に見えぬ葛藤を身にくりかへし火にかざす手も細くなりたり
味気なく仕事なすときうづき来る奥歯も寂しコピーとりつつ
事務服をロッカーにしまひその奥に脱ぎたる顔の一つもしまふ
いくたびも地図をひろげて確かむる川のほとりのわれが住む町
辞書のたぐひ聖書もありてくぐもれる和音のごとくわれをとりまく
埋めたての人ら去りゆきパレットのかたちに白く暮れ残る沼
挑ましき思ひも湧かず二つ目の病名を身に告げられて来て
出で歩く日の稀にしてよくものを失ふことの今も変らず
夜の雪はタイヤ痕より解けはじめまた幾日か道ぬかるまむ
昼前の標本室のしづもりにジュラ紀の貝の乾きて並ぶ
呼びかはす野の鳥のこゑ美しき羽根をわが身は持つこともなし
包丁を今日は砥がせて新しき家に慣れゆく妹のさま
灰いろの何の花びら春を呼ぶ嵐の夜々に飛びかひやまず
血圧の昇るきざしかまなかひに風花の舞ふごとき野を行く
移り来てはじめてすごすきさらぎの十日椿の花咲き出でぬ
竪琴の弾き手のをとめ昨夜見たる輝きに遠くバスを待ちゐつ
木洩れ陽のかげりては差し一つ一つの恩誼といふに疲るる日あり
カナリアの家はいづこかピンカールはづしつつ聞く朝々のこゑ
ゆくりなく会ふ朝の虹薬入れとなりしバッグをいづこへも持つ
老いしるきインコに日ごと摘むはこべ白く小さき花持ち始む
わきまへのなき犬ながら限りなくまろびて遊ぶ注射のあとを
木の間よりまた戻り来る白の蝶遠き電話を聞きゐるときに
意表を突くことも言ひ得ず帰り来てレタス幾ひら真水にひたす
丸衿の紺の制服幾何を好む少女のわれはいづこへ行きし
電話なきくらしをかこつ妹の電話が入らばまた苦しまむ
まなうらをすべり抜けたる蛇のいろあざやかにして再びは見ず
うすら寒き日のくれに来て荷を置けり足傾けるベンチの上に
よみがへる言葉のごとくとぎれつつ校塔のチャイム川越えて鳴る
鋭角の衿の線朱の色に引き秋のコートの型紙を裁つ
思ふことみなあはき日を朴の葉の影をかさねてわが上に垂る
ガラス戸の花柄冴えて唇の灼くる季節もいつか過ぎゐる
レーズンをサラダの白にちりばめて嵐のあとのごときしづけさ
よごれたるハンカチを持つことのふと危ふくて駅の階下りゆく
うとましき思ひも稀のよろこびもあらはに言ふをわれは好まず
心なく人の傷みに触れゆきし言葉の機微を帰り来て思ふ
動く歯のいつか痛まずなりゐるとまたよりどなき寂しさは来る
夜もすがら吹きゐし風の音絶えてかたつむり幾つ地上にまろぶ
遠く来て何をもたらす鳩ならむ路地の日ざしにながくついばむ
癒えにくき病ひ庇ふといつよりか無頼よそほふことも身につく
スカートの裾直しをりいきいきと物言ふ日などわれに還るや
鶏を飼ひはじめたる家あるを言ひ出でて何を寂しむ汝か
欺けるもの皆滅びよといふごとく烈しき雨のひとしきり降る
片附けるといふ感じにて書き終へし稿を綴ぢつつ俄かに脆し
護符の鈴つね持つことも知られつつまた縛られむここの仕事に
フィルターの黄の円形を移しつつ鳩のうごきをいつまでも追ふ
隣より洩れくる議事のはげしきにひとりの声を聞き分けてゐつ
振り切りて帰らむとする夢のつね雪のはげしく橋灯に降る
醒めをれば厨に何をきざむ音はげしくなりてやがてゆるびつ
肘痛む時に思へりスイフトは予言してつひに人を死なしめき
発車待つバスにゐたれば対岸の日あたるビルは窓暗く見ゆ
押すこともあらず押されて歩む身をわれと笑ひて改札を出づ
目のしきり乾くと思ひ立ちあがりいたくぬくめる空気に触れつ
耳打ちをされたる少女何問ふとまっすぐわれを見つつ近づく
練乳をしたたらせゐて立つ湯気にまなじりうるみやすき日のくれ
十年目のわが犬のため朱の色の首輪サイズを確めて買ふ
去りゆきしをとめの一人の作りたる縫ひぐるみ今もわが棚に置く
消息を断ちて久しき人のためライン河の地図壁に貼り置く
失へる皮のブローチも出でて来て春のコートにアイロンを当つ
機械音くぐもる地下の書庫にゐて人の声よりわれは乱れず
階段を半ばのぼりて気づきたり今朝は左の膝の痛まず
通勤のバスの七分地獄とも極楽とも思ひ朝々揺られゐる
屋上にしづまりゐたる旗一枚不意によぢれて降ろされゆけり
散りがたの椿となりぬ楊貴妃とひとり名づけて見上ぐる日々に
遊歩路に灯の入れる見て帰りゆくたのむ思ひもかそかになりて
ちりぢりに睡蓮の葉の浮ける見え乗せたるごとく白の花咲く
口ほてる注射され来て癒えたしとはやる思ひもいつしか淡し
獅子舞の人ら去りゆき獅子が歯を嚙みて鳴らしし音残りたり
吊り橋の形さながら描かれゐる古地図にたどり信濃路を恋ふ
途中より切り離されて別れゆく短かき汽車は秩父に向ふ
開校の記念日近く鼓笛隊をはげます声の朝より聞ゆ
川岸の薊のつぼみぬき出でて毳にこまかき雨を溜めたり
紫のサリーの少女歩みたりひさびさに行く銀座のよひに
幾日経てよぢれし葉書戻り来ぬ行きしことなき那覇の町より
なづさひて苦しきときに候鳥の渡る夜空をテレビは見しむ
長く生きて安らひ難き手相とぞ菜を洗ひつつ刻みつつ思ふ
正面に見る日のなくて通ひつつ背高き石の像とのみ知る
印鑑の置きどころふと思ひたり橋のたもとまで人を送りゐて
ビニールの袋かさねてたたみつつ次第にやさしき曇り帯びゆく
香りよき石鹼に揉むハンカチの黄の薔薇なすをてのひらに乗す
振向きし時見据ゑられゆくりなく土蜘蛛といへる面に会ひたり
わが真上めぐる鳩あり仰ぎつつ風に乱れし髪をととのふ
歌垣の夜のごとき月のくぐもりに音をかさねて落ち葉降る森
時ならず雲間より日の差すに似て人はやさしくわれの名を呼ぶ
揺られつつまどろめる間に横顔のマダムマルセルまた見失ふ
含みたるチーズの舌につめたくてたはけのわれをうつつに返す
伴ふはたれとも知れず行く旅の夢醒めて見ゆる野川ひとすぢ
カーテンの白を怖るる心理など告げられてゐて他人事ならず
計数の誤りは消して直せば済む余計なことは言はずにおかむ
地に落ちし弾みにまろぶ樫の実の行方の一つだに見極めがたし
まざまざと義務の苦しさ句読点の全くあらぬ文を読みつつ
上野までの一時間がほどに思ひたることの大方降りて跡無し
温室の蘭見に来よといふ賀状幾たびとなく思ひてやさし
まろび出づる言葉の如し戸をあけて破魔矢の鈴の鳴る折々に
おもかげの遠くなりつつ鹿児島は火山灰降るといふ松の内より
使ひたる人みな在らず重いだけの手斧ふたたびくるみて蔵ふ
蜘蛛の巣にかからず落ちし樟の葉の地上の風にしばらくまろぶ
礼深く人の出で入る病室にリボンフラワーの赤なまなまし
タイプ室に午後をこもりてやりすごす人の心の見え渡る日は
サンプルに置きゆける事務室のシクラメン蕾抬げて次々に咲く
眼先のくらみたるとき蛍光管裂けたる音すとなりの部屋に
雪道に足を取らるる夢も見て訪ふ日はあらず遠きふるさと
曖昧にゐるわれを措き妹のきびきびと朝の身支舞ひをなす
蘭の名をあまた覚えて何にならむ罷り来てまた闇にまぎるる
閉館のチャイムが鳴りて少女らは歌ふごとくに挨拶しゆく
おぞましきまでに椿の散りしける道あり風の凪ぎたるゆふべ
街灯のまばらにともる路地を来て鳩時計鳴るはいづこの家か
とめどなく降り来て棕櫚の葉を鳴らす雪の寂しさ棕櫚の寂しさ
前後なくなりし記憶に火に巻かれ誰か無電を打ち続けゐつ
著莪の根に圧されて花の咲かざりしベゴニアの芽の土抬げゐる
千に刻み水に放てる大根のむきむきに沈むさまの華やぐ
顔寄せて窓を窺へばしろじろと触れむばかりに辛夷咲く枝
絹の裏をつけて着易く縫ひあげぬ働くときにまとふブラウス
紫の花咲く藻草売る少年日に幾たびも水を貰ひゆく
インク壺にインク足し来て坐りたり立ちゐたるまに何か乱るる
喪にこもる人を訪はむと選びつついづれの花のかたちも険し
雪柳の花こまごまと散りそめぬ帰ることなき犬の名を呼ぶ
風の無き一日を出でて反故を焚き古りし思ひのなべて燻らす
恙なく皆在りがたき季節かと知りびとの訃のつづけば思ふ
忘れ易くなりしあはれを人は言ひ遅れし本を返しゆきたり
いつまでも寒き春よと歩みゐて白のあやめの直盛りに遭ふ
水死者をとむらふ菊の黄も白もたちまち潮に巻きこまれゆく
熱風の季節怖るる文面にそぐはず青し絵はがきの海
牙むくといふことのなきわが上を弱しと決めて妹もゐる
靴べらを踵に入れしときのまに訪ひたる悔は身にひろがりぬ
おもかげにかならず逢ふと百地蔵めぐりゆきつつ次第に脆し
相合はばまたかなしみは噴くものを亡き人の名を唱へてやまず
遠き世の帰依さながらに藁火焚き今も祀るか家並み古りつつ
つまづきて足もとを見しときのまに身に憑きゐたる何か失ふ
雨あとをよぎる薔薇園黄の薔薇の咲きゐるあたり殊に明るむ
刈り伏せて十日余りか下草の羊歯はこまかき葉をもたげ来ぬ
混みあへる浴衣売場の人形は少し反り身に日傘をさせり
指先に力こもりて絞らるるレモンを見ゐつふと遠のきて
水いろの綿菓子を持つ児らのゐて一人は片手にぶらんこをこぐ
鳴る鐘はいづこの空か新しき剃刀をもて眉根ととのふ
水の輪が揺れ魚が見え児が叫び漂ひてゐる朝の目ざめに
キヤンプの時の赤き蠟燭ともしつつ停電の夜のめぐり華やぐ
何の木と分きがたきまで暗くなり声をおとして人ら語らふ
見覚えのある顔一つ夜汽車より降り来ぬスキーの身仕度のまま
替へてやる亡き犬の水朝々にかなしみてなす仕事の一つ
雪山を見て茫然とゐる写真背後よりとりて人のもたらす
空間を一直線にわれに来る向日葵の黄とその芯の黒
自動車の過ぎてしばらくそよぎあふ道べの草ももみぢしてゐる
傷口を縛り一夜を寝し指の乾きゐていつものやうに家を出づ
明日は休みと思ふ家路に渡されしビラもたたみて鞄にしまふ
トラックの尾灯と知れど幾つにも殖えつつ揺るる夜霧の奥に
ガス灯の形やさしきガラス壼葡萄いろの飴もてこよひは満たす
機械的な処理に慣れつつ稀にゐる家にてわれはいさぎよからず
通されていつものソファーに仰ぎ見る湖の絵もいつしか寒し
硝子ごしに計器のたぐひ光りゐて不吉にわれの名は呼ばれたり
放課後まで保つや児らが校門に築きあげたる雪のスフィンクス
読まれゐし日記のことを知らざりき十五年経て痣のごとしも
立ちゆける誰にかドアをあけられて部屋の空気のゆるむ感じす
黒鍵のエチュードに今日より入らむとしいたく小さし妹の手は
道を尋ねゐしが忽ち修道女の顔に戻りて歩み去りたり
階段から改札口へ殺気だちときに静けし人の流れは
雪山へバスを発たしめちりぢりに闇にまぎるる見送りびとら
連れのゐてつたなくものを言ひしこと時経て思ひ癒されがたし
思ひあたる理由といふもすべなきに臥しゐて右の腕のみ重し
白梅の若木植ゑたるわが庭にいち早く来よ今年の春は
雲を映す日の多くなりし水の上風は渡らふバリウム色に
届きたる供花の黄の薔薇活けてゐて虚飾のやうな窓の明るさ
クレパスは青のみとなり吹く風も野も真っ青に塗るほかあらず
門灯の一ついつより消えゐるかさだかにたれも覚えてをらず
出でゆけばすぐに隠れてたはむれにブザー押す子は幾人ならむ
身に近く置く縫ひぐるみ初めから吠ゆることなき犬などさびし
目の前につきつけられし感じにてカラジウムの葉の一枚そよぐ
身をよけて通らしめたるトラックに横向きに乗れる三頭の馬
硝子ごしに雨を見てゐて目の前のことに怒らずなれるに気づく
これ以上失ふものは残りゐず腕力のごとき力湧き来よ
聞きとれぬ遠きドラマに縄のやうな顎ひげのある仮面がうごく
街灯をかぞへつつ来て気づきたり悲しみをそれてゐたる時のま
指先がつららのやうに尖りゐきさびしき夢を見て起き出でぬ
遠くより青くともしてバスは来る帰りゆきてもたれもをらぬに
ひさびさの雨となりたり忌の明けに異国のやうな対岸の森
雨の音にとり巻かれゐて逃れ得ず激しくたれかわが名を呼べよ
窓により見てゐる雨は絵のやうに白き斜線を引きながら降る
手巾にアイロンの余熱あてながらまたとめどなく思ひ墜ちゆく
眠るとき必ず思ふわれの位置運河ふたすぢこもごもに光る
灰いろの葡萄つるくさきりもなくつなぎてゆけり眠りのなかに
雪の嵩も昨日のままか花びらの欠けたるネオンこよひもともす
買ひやらむ妹はゐずこの冬の色あたたかき布地を見てゆく
銀いろのポールが立ちてゆれゐたり旗のあがらぬ今日の静けさ
腋寒く見てゐるものを啼くこともあらずうかべる白鳥のむれ
そのほかの費し方を問はずしてわがために生を終へし妹
定規あてて罫をひきゐる間だけ何もかも忘れてゐしかと思ふ
生きてあらば如何に歎かむ幾種もの薬のみつつ起きゐるわれを
消し忘れし灯の家にある如き一日こゑ励ましつつわれは仕事す
草むらの底にみひらくこの春のたんぽぽの花も妹は見ず
輪郭のたしかなる影ひきゐると気づきぬ信号に立ちどまるとき
遠く行く旅もかなはぬ予後の身を人はいざなふ札所めぐりに
伎楽の面の内側にあく瞳孔の深く小さし二つならびて
分身のごとくにありし欅の木芽ぶきて大きひろがりをなす
ときのまに春雷は過ぎ明るむを呼ばひて出でむうからもをらず
栗の花の匂へば雨になるといふ雨の日曜はさびしきものを
リストよりラフマニノフと思ひゐて急に効きくる眠り薬は
醒めゆかば如何にかさびし少年の聖歌コーラス澄みて続ける
散りしける売子木の花みなよごれゐておもたし傘も左手の荷も
断ち切られまた繋がれてすべ知らぬ思ひに今日は彼岸会にゆく
思はざる花びらの嵩芍薬のうすくれなゐの一つ崩れて
黄の花の終らむとしてとりとめもあらず乱るる薔薇の垣根は
いとけなく伴はれ来しその子とも睦みつつ剥くしたたる桃を
白桃の季節去年よりしづかなるわれかと思ふ水に浮けつつ
この夜はいづちの山か届きたるはがきににじむスタンプの青
風邪のあとの幾日たゆく勤めゐて本の倒るる音にも脅ゆ
白樺に似る林とぞ少女らの調べ当てし木の名ナンキンハゼノキ
秋海棠を好みしうからみな在らず土やはらかし墓への道は
売られゐる秋の野菜の美しさ厨のことにうとく過ぎつつ
二枚の刃をかさねておけばしづかなるかたちと思ふ机上の鋏
進みぐせの柱時計と知りながらおどろきやすし休みの日にも
見つからぬままにすぎつつ妹のよく嵌めゐたる珊瑚の耳環
夢のなかの約束のごとはかなきに詣でむトルコ桔梗を買ひて
春分の日ざしとなりてわがゆくて紫いろに砂利の浮きたつ
われの身に香の匂ひのするといふ噎せてひさしく香を焚かぬに
ラ・パロマの目覚し時計また買はむやさしくなさむ朝の思ひを
針柚子を椀に浮かしてなす夕餉何を食べてもひもじきわれか
谷深くたづさひ降りし日のありき栃の実を机の上にころがす
どのやうに角度変へてもわれのゐて鏡に映る範囲灰いろ
襟もとのさびしき朝か鏡のなかのわれにかけやる銀の鎖を
さわだてる木立の上を流れつつ粗き縞なす何の煙か
考へてもどうにもならず道ばたの菜の花は半ば実となりてゐる
さし潮の色となり来る見つつゐて河の向うはわが知らぬ街
はるばると来しわれのため幾たびも言ひて曇れる入江を見しむ
相輪のあたり煙ると思ふまで次第につのり塔に降る雨
植ゑ呉れし人も来ずなりはじめての花低く咲く蛍石蕗に
迷ひたるのみに終れど幾日経て痩せしと思ふ指環抜くとき
寄せ置ける落葉を鳴らす夕の雨俄かに秋の深む思ひす
昨日のことのやうに思へど白萩の倒れてゐしはいづこの道か
二十年先のことなど言はれゐてわれにはさびし明日のことさへ
出おくれてひそめる鳩の如き日か風出でてまた棕梠の葉が鳴る
昼も夜も竹の落ち葉を聴くのみの日日と告げくるまれの便りに
伴ひて渚に貝を拾ひつつ訛りのとれしわれをさびしむ
音もなく舞ひくる雪の幾ひらはしばしとどまるコートの胸に
二重硝子のかなたさわだち帰らざる時を刻むか寄する波さへ
曇りのまま日は暮れむとし灰いろの布一枚となる冬の海
辞めてどうなる当もなき身にいつまでも退職願の汚れしを持つ
手を使ふ職場と思ふ指の先割るる季節のはやめぐり来て
耳もとを去らずめぐるは今朝見たる石蕗にゐし蜂かも知れず
ウインドウに売れ残りゐる湖の絵にも降りゐむこよひの雪は
穂に立ちて照りゐし朱美今朝あらず南天はうすく雪を溜めつつ
背後よりきらめく波を見たるのみ寒かりし海の記憶も古りぬ
生き死にもさだかならぬに夢に来てわれをさいなむ昔のままに
木枯のなか行くときに身に沁みてわが持つ傷よ千の過失よ
戻り来てドアとざすときわが庭の沈丁の花はいまだ匂はず
気負ひてなす仕事の如し文房具のくさぐさを身の回りに置きて
人の持つ生活は知らず訪ね来て口数多きはどのやうな日か
縫ひあげてふたたびさびし待針を色分にして挿し直しつつ
呼ばれたる車に乗りぬ陥穽はわが内にのみあると思ひて
容易には誰もやめられぬ職場ならむ勤務表に名を入れつつ思ふ
雪どけの水たまり一ついつ見たる古りし鏡の如くくぐもる
洗ひたるレースの花を整へつつ何して見ても手の渇く日よ
砂利掬ふ音は粗しと聞きながらかきまぜらるる如くにゐしか
破りたる約束に似む景品のダリアの種も蒔かずに終る
牙のあるけものの夜々に通ふとふ道をおほひて深き笹原
公園の柵を出づれば風の坂白鳥ならぬ身はバスを待つ
人と会ふ仕事なしつつ口腔の荒れゐる意識をりをり還る
檜葉垣の秀の黄に萌えてゆらぐさま硝子戸ごしに花の如しも
乾き易くなりしてのひら気にしつつ持つもの多く朝々を出づ
何に使ふ石とも知らず運びたるいにしへびとに似て在り通ふ
残像の消えがたき日と思ひたり萼のみとなれる桜を見つつ
果たし来し仕事といふも敢へ無きにいまだ灯ともす隣のビルは
雨傘に身を庇ひつつ歩みゐていつより蟹の匂ひをうとむ
苦しみも過ぎて思へばきれぎれに見たるドラマの画面のごとき
堰を切りなだるる如き思ひよりふと浮き出でてこよひは眠る
テラスより見おろす街も秋めきぬビルのあはひに白煙あがる
台風の進路を示す矢印のかなたの海もあをくたそがれてゐむ
待たれつつせかれつつなす宵々の荷作といふもわが身に応ふ
阻まれて目をあげしとき木のやうに伸びて茂れる山牛蒡立つ
街路樹の黄ばみ早きは何の木か屋根のみ見えてバスの行き交ふ
この部屋の矩形を全世界として出で入るはわが死人はらから
雨の夜の冷ゆる空気を嗅ぎてゐて古りつつ痛む傷かと思ふ
表皮より剥きつつ使ふ幾朝にキャベツの軽くなるにもあらず
鳴り出づるチャイムを待ちてゐるわれか稀の家居に水使ひつつ
真っすぐに立つといふこのさびしさよ花の終れる向日葵の茎
五階より見おろす夜明け街灯はうすらみどりになりて消えたる
働きて互みに経たる十年に美しかりしタイピストも老いぬ
洗車場より出づる車に心まで清めしごとき助手席の顔
帰り来て帽子をぬげば絵に見たる原人もわれの顔もかはらぬ
働くことは縛むること煩悩の人より濃ゆきわがあけくれに
いくたびも浅瀬を渡る夢なりき水青かりき月の光に
権力に屈するごとく屈するを病のゆゑといへどさびしむ
はればれと歩むならねば午後三時ビルのあはひの暗がりもよし
われの持つ弱味と言はむさだかなる理由なくては何もなし得ぬ
見しことのあらぬオーロラ見たる日をたのしげに言ふ傍にゐる
食べよとも寝よとも誰も言はざれば目をしばたたく夜の明近く
残業に倦める一人か立ちゆきて回転ドアの光をまはす
おのづから強制力を持つならむ声やはらげて言ひても同じ
もう一人のわれは冷く客観すしどろもどろになりゐるわれを
身一つを遊ばしむるにつたなくて駅のほとりの辛夷も終る
見し夢の名残りのごとく十日経ていまだはなやぐ蘭ニ茎は
強かりし男の子もなべて滅びにき矛ふりかざし風化石像
さわだてる身を薬もて鎮めつつ決断といふも理窟にすぎず
労働にすさむは言葉のみならずレモンの酸は舌先に沁む
夏薔薇の小さくなりて咲く見れば今に残れる思ひの如き
見ゆる間は立ちて見送るわが習ひ別れがたくて立つさまに似む
スプリンクラーの霧の高さの整ひて芝生に無数の虹立ちはじむ
思はざる高みへ視線のゆく日にて篠懸の秀を渡る風見ゆ
念凝りて石となりしといふきけばまだまだ浅きかなしみならむ
暑き夜のまどろみに見る夢にさへふるさとの山は雪をいただく
コーヒーの香にたつ真昼合歓の木の作るやさしき木蔭もあらむ
思はざる高みへ視線のゆく日にてみづきの花の真盛りに遇ふ
信号に堰かれてをれば目の前はしづく垂りつつ待つ冷凍車
台風の惨を伝へて厚板のごとく流るる水とし言へり
過ぎにしはなべて夢とよ花咲ける萩のしげみに道をふさがる
葉がくれの青木つぶら実候鳥の持ち来し苞のごとく色づく
堰を切りて流れたき日かもの言はぬことも思はぬ力を要す
機械さへ悪意もつかと思ふまでテレファックスの像定まらず
表情を崩すことなく聞き終へてぐらぐらとせり立ちあがるとき
太陽に頭上を通過されしのみと読みたり無為を歎く言葉に
両の手を合はせし闇をうち振ればほろほろと鳴る印度の鈴は
数へ切れぬ傷と思へど磨きたるガラスの向うは草萌えの丘
肩口より冷えつつ醒めてきららかに身に帯びゐたる鱗もあらず
早梅の咲くころならむ薬品の名も新しく知りて癒えゆく
手を振りて別れ来にしが本名を告ぐることなく長くつきあふ
待つことも仕事の一つビルの上に奇形の雲のながくとどまる
枝先の鵙を見をれば意識して危ふきことをなすかと思ふ
わが今の立場思へば毛皮などをなべて剥かれし寒さのごとき
雪の夜のいづこともなくとざされておもたき鉄の一枚扉
語りあふさま座席より仰ぐとき牙のごときを人間も持つ
会ひがたき人となりたり約束の一つをわれの果たしし日より
蜂や蛾を怖れつつ野の家に棲むモノドラマもあと三月の間
ゆく末の如何になるとも今見ゆるかの波だけは越えねばならず
書かれゐしは何の数字か黒板を拭き消して午後の会議を始む
振動の激しき電車誰もみなひびわれて立つてゐるのかも知れず
おもむろに心移して生きゆかむゑのころぐさを抜きつつ帰る
積乱雲あはく燃えつつ暮れむとす窓をしむればわが小世界
四トン車に詰めて預け来し書物あり如何にか積まむ新しき家に
遡行する時間のごとしメトロノームの音のみさせて暫くをれば
覚えにくき人の名を言ひて海彼なる軍の蜂起をニュースは伝ふ
子犬より長く生くるとも決まりゐず頭を撫でやりしのみに戻り来
山茶花の白冴ゆる日よ雪国にうまれし性を今に保ちて
鳥かぶとの花買ひ持てば香にたちて毒にあくがれ来し日も久し
灰皿を清めて人を待つごとき思ひにゐたり夕食のあと
くらがりに麻か何かを綯ひゐたりめざめてほめくてのひら二枚
思はざる恵みのごとく暖かき数日ありて風邪も癒えなむ
香を焚くほかあらぬかなたのしみの待つ如く帰り来りし家に
父母の墓さへあらぬふるさとの馬の祭りをテレビは見しむ
しどけなく笑へる写真幾枚もとられてゐしは暴力に似る
散らばりし意識の跡も敢へなくて昨日書きたる文字正しゆく
終りさへすればとのみに励む夜をくり返しつつ年逝かむとす
裸馬の一頭戻りくるシーン夕焼け沙漠を背景として
知らざりし一面見せてゆるやかにベビーカーなど押して歩むよ
告げざれば思はぬことと等しからむ告げずに思ふ事の殖えゆく
外側から変ふるてだてもあるらむか同じ形に髪の整ふ
ほころびを繕ふごとく在り経たる五年と思ふ忌の日を過ぎて
光線のゆゑかも知れず位置替へて仰ぐ塑像のふとゆるみたり
聴衆の一人とあれば安けきに汗あえてバッハを弾くピアニスト
ほどく人のときめきを思ひ花びらのかたちに赤きリボンを結ぶ
内よりの力に割れし卵かと籾殻を分けてゐる手が怯む
なりふりなどかまはずならむ年齢を怖れて思ふ髪を巻きつつ
悪霊を払ふが如く呼ぶごとく藁を焚く火の燃えあがりたる
ねぢ釘を探す箱より出でて来て何の鍵とも知れず小さし
みどり児をいだく重みもわが知らず帳簿かかへて廊を往き来す
庇はむと思へるひまにあらだてて人はうとましき性分を持つ
事務室の外はまた雨直ちには答へぬ習ひいつよりか持つ
はかどらぬこよひの仕事不揃ひの紙の裁ち目の気になりてゐて
粉チーズ砕きて振りてグラタンの皿を使ふも幾月ぶりか
四日目の夕に熱の引きて醒む何も歎かず経し百時間
甲虫の如くにもがきゐしわれも見てゐたる貌も覚むればあらぬ
かすかなる花粉の匂ひ地に湧くと夜のくらがりを行くとき思ふ
あたたかき夜霧のかなた街の灯は粒子撒きたるさまに散らばる
天気予報を聞かむラジオは夜桜につどふこよひの人出を伝ふ
夜の海に降り込む雪を思ひゐていつしか眠る病みて十日目
吊られゐるもののさびしさ店先のレインコートの裾ひるがへる
パパイアの持ち重りするたのしさも長く続かず混むバスにゐて
抜け道を探してゐしか夢のなかのわれは諦め易くくぐまる
蜂蜜の底のこごりもゆるみ来としたたらせをりケーキの上に
山の桜のみごろを知らせ来し手紙持ち歩みつつ四月も過ぎむ
みちのくの干潟思へば草の穂も秋の気流になびかふころか
古びたるメジャーの狂ふことなくてほどよく決まる釦の位置は
賜びにしは花の賑はふ鉢なりき葉のみしげれる秋のベゴニア
ポストへ寄らむ為に数分早出して見知らぬ人とバスを待ちあふ
湖をめぐる短き旅も果たし得ず今年の秋のはやく更けゆく
盂蘭盆の終らむとして年々におとなひ呉るる人も移ろふ
あるを願ひあらぬを知りてゆく日々に返り花咲く額紫陽花は
堕ちてゆく思まざまざと身にあるを思のみにて終へしめむとす
存在が即罪悪と畏れたる若き日ありき雪深かりき
亡き人に庇はれて今もあるならむあはれまれてもあらむと思ふ
いそしみていそしみてなほ足らざるは時間のごとし力のごとし
コップのなかの嵐と思ひ至るまで時間をかけて苦しむあはれ
秋の日の澄み徹りゐる道を行き神隠しにわが遇ふにもあらず
綿の雪しろじろとまとふ空間を俳優ひとり立ち去りゆけり
ぬけ出でていづくへ行かむ月明にひとすぢ光る水路のあらば
照準の不意に定まりくれなゐに芙蓉の花の咲く道に出づ
人づてに聞きたることのあやなすをたしなめて雨の陸橋を越ゆ
惑はしの声のごとしもゆく末をつくづくと思ひ見よといふ声
吹き荒れし嵐なりしがこのままを往けよと如く落ち葉が匂ふ
守られて生きたる日なきわが上にいたくやさしきいざなひの声
急速に興味失ひゆくことの失意に似つつ別れ来りぬ
この家の二度目の冬に入らむとし今朝よりはボアの上衣を纒ふ
行跡を晦ますと謂へりわが日々に晦ますほどのこともなし得ぬ
シベリアの冬を思ふは囚はれて橇に乗りたる記憶のごとし
人の持つさびしさは知らぬゆきずりに暗かりし顔の暫し離れず
汚染に強き植物といふ坂の上の篠懸もいつか色づきて来ぬ
かぐはしきブバリアの束花嫁の持つ花と言ひて供華に賜ひぬ
怖るるを知るはいつの日幼な子は蛇のかたちをゑがきて倦まず
切りかへす言葉を包みゐる日々にまざまざと錆びてゆく刃見ゆ
実験室にガラスの光る秤見え何の重さかはかられむとす
掘りあげむ球根一つあらぬこと思ひてありて百舌に鳴かれつ
なりはひと割切りて言ふ声聞けば恥多くしてわれら働く
ヒッピーの起は十年前と言へりながく生くればさまざまに遇ふ
どうなるか胸騒して聞きゐしが言へば気のすむことかも知れず
買ふ方が早からむなどさびしむに手袋の片方未だ出で来ず
こだはれば眠れざらむと知りてをり書棚から文庫本一冊を抜く
しろじろとさびしき夢を見るならむ風邪の薬の誘ふ眠に
クイーンの切手貼られて届く手紙雪の故国を恋ふると告げて
別れたる死にたる人らみな若くをりをりの夢に入り来るはよき
降りやまぬ雪に思へば運命を分けたるごとき一夜さありき
エアカーテンの遮る外気いくばくか八時間労働われに始まる
思ひきりそれてゆきたき衝動を抑へつつゐて人に知られず
地下道に雨を避けつつ歩みゐて言葉すくなし伴ふ人も
物憂くて幾日ありけむ今宵よりは巻き込まれゆかむ仕事の渦に
横にうごくものばかりなるやましさに街は夕の影深めゆく
平安の待つわが家とも決まりゐず署名なき手紙今日は来てゐる
喪の家を示す矢印いつよりか貼られゐて見知れる苗字を記す
見てはならぬ場面の如し床の間の菖蒲にわが目をしばし遊ばす
思惑の渦なすなかに身は置きてとりとめのなきわれと知られず
珊瑚礁といへる明るき海域は思ふのみにて訪ふ日も無けむ
ゆとりあらば何なすならむか金銭の遊びといふをわれは好まず
暑き夜に見し夢のなか光る目をのぞかせてわれはアラブの女
よぢのぼり塀をこえたる瞬間にまぶしきライト浴びて目ざめつ
意識してへだてがましくなすことも今のひとりを守らむがため
山里は人かげあらず石仏をただの石のごとく道ばたに置く
五線譜をたどりつつ歌ふ少女ゐてロシア民謡らしくなりゆく
スパカコール鏤めてゆく指先のわが手ともなくこまかにうごく
旅に出づる錯覚などは持ちがたし今朝もこみあふ東北線は
あかあかと昼もともして人はみな古りにし傷を庇ひ働く
なすことのなべてよぢれてゆく如き思ひに仰ぐもじずりの花
いにしへの葡萄文様を雲に見て電車にゐたり土曜の午後は
簡潔にくらさむとのみ願ひ来て壁に貼リおくルオーも古りぬ
赤錆びの砂漠ばかりをこえゆきて夢にも人に会ふ日はあらず
いつまでも空一面に貼られゐて鱗の光りあふごとき雲
さまざまに願ひたゆたひ木の如く豊かに立つといふ日もあらず
人の声の弾みてゐるに合はせつつ次第に合はせにくくなりゆく
九回目も勝ちしボクサー今はただ休みたしとのみ言へりと伝ふ
錯覚にすぎざりしことのよみがへる曇る眼鏡を拭きつつをれば
またぎきに聞くわが言葉胴体を拭き抜けてゆく声の如しも
全きを願ふならねど築きてはまた崩す塔のごとき仕事よ
三歳の児の父といへりねたましきまでに燿ひサーブを打てり
たれの吹くフルートならむ光りつつ亀裂を伝ふ水を思はす
とどこほる思考のなかに入り来て不意に口あく納蘇利の面は
思はざるゆとりの如し菜を洗ひ湯のたぎる待つしばしの間
しろじろと乾く日多き県道も土の色なす時雨のあとを
砂などの濡れて詰まれる重さかと晴れぬ思ひを運びて帰る
生者死者あまたの声に呼ばはれて騒然とあり夢の醒めぎは
かなたなる海の入り日にきはだちて大き寝釈迦の如し砂丘は
構へたる歩みとなりぬ速力をおとして迫る車のあれば
とのぐもる空のいづくかに月ありて背すぢ光らせ犬の集まる
とざされて幾日ありけむ目の前の氷を割らば何か出づるや
菜を漬けて目分量の塩を打ちゆくにほどよくくぼむこの掌は
わが書ける図書館のニュース広報に読みて心の開くもあはれ
さまざまの匂ひ嗅ぎ分け生きて来しわれかと思ふ蘭を嗅ぎつつ
俯瞰して見ゆる範囲に黄に塗られ何を限れるひとすぢの柵
待ち長き思ひのごとし花つけて宙にしづまりがたき穂先は
生きものの何かがゐたる気配して筧の水のうすく濁れる
ひとすぢの水路に隔てられてゐる町が見ゆ階を降り来ても見ゆ
角印を一つ捺すにも平均に力の入ることは少なし
いつとなくギプスに固められきたる心のごとしながく勤めて
落ち葉焚く火に近づきて見てあれば炎は風に片寄りて立つ
くぐもりて幾夜をあらむ渡されし名刺ほどなるかなしみ持ちて
かりそめにナイフ研ぎゐてまとひけむ鋼の匂を気にしつつ立つ
突き刺して共に死なむと思ひしか若かりし日も遠くへだたる
一日は二十四時間ありたりとつとめやめし友の切実に言ふ
反射的にひるがへりまたひるがへり何か試してゐる魚と見ゆ
片仮名に戦死の土地の名を記す碑のかたはらは妹の墓
兵隊の位にすればなど言ひて人はよはひをまざまざと見す
はろばろとゆく雁見れば明日死なむ人とも知らず物を言ひゐき
足垂りてリフトに昇りゆきにしがかの夕より帰らずといふ
雲がゆき雲の影ゆく草原に逝きにし人のなべて恋ほしも
ほきほきと枝をおとして活けをれば季節はづれの小菊もやさし
体ごと傾けて何を聴く人かをりをりかげる表情を見す
白檀の香のする店にわれひとり筆を選びてひそかにゐたり
黄ばみたる梔子を捨てなめらかな日ばかりならず六月も逝く
残業を終へて出で来てゆくりなく七夕の夜の賑はひに会ふ
用の済みほとりと受話器置きたればなべて終れる如きしづけさ
再びも三たびも折れて戻りくる生くる限りの意識の回路
一人分といふに慣れつつ珈琲豆を挽く作業などたちまち終る
風落ちて夕日さし来ぬ出でゆかば遠くの山の見えゐるならむ
明日の日を怖るる要などなくならむ職をひきたる後を思へば
宴のあと幼きわれに重かりし大皿などはいづちゆきけむ
落ち入らむ予感にさとく来しゆふべ刃先隠してナイフは売らる
雨あとの光みなぎりけものみち風の道みな笹原のなか
ストーブを消すもともすもわが仕事独りの部屋のみ冬づきつつ
花びらのとがれるにさへ脅ゆると聞けどはるけし病む人のうへ
近づきて見れば色あひさまざまの鯉ゐる水の騒々しけれ
全身の醒むるに間ある朝まだき何か黄色のかたまりが見ゆ
うつ向きてゐる日の多く床を這ふコードの色はみなねずみいろ
秋草の枯るる匂ひの湧きのぼる野道を行けり忘れむとして
返り咲く枝にまばらにつきゐたる浜なすの実もいつしかあらず
わが身より何かの抜けてゆく如し遠ざかりゆく雲を見をれば
坂道にかかりて重き乳母車かかる重さも知らで過ぎ来し
描きかけて照葉樹林の分布図もありしと伝ふ遺品のなかに
寄せ植ゑに森をかたどる盆栽の欅のうれもかすかもみぢす
夜の更けに厨ごとなすわがならひ音をしのびて皿を抜きつつ
いつ見たる門とも知れず夢に見て椿散る坂をのぼりゆきたり
喪の家をやうやく今日は訪ひて来て夜の思ひのはつかになごむ
亡き父も故郷に老いて雪の野に成る木責めなどしていまさずや
遠縁に職業軍人一人ゐき騎兵大尉を人ら畏れき
病院へ行くと職場を離れ来ていづこへ寄るといふにもあらぬ
ふくよかに湯浴みなしたるみどり児の匂ひと思ひすれ違ひたり
春の雲のふくらむ見れば錯誤さへ身に華やげる日のありにけり
夜の汽車に行きし日ありき春日野の万灯会にもながく参らず
胸ふたぎ出でて来にしが抜き出でてたんぽぽそよぐ常の道なり
面壁とはおのれに向ふことならむおのれといふも単純ならず
声立てずひと日ありしが電話来て笑へばわれと顔のあかるむ
マンゴーの実を掬ひをり松やにの匂ひのするとひとり思ひて
音もなく霧の湧く野を帰り来ぬゆふべのミサも終らむころか
桜桃のころに生れしわれといふ実桜の木も伐られてあらず
いづこなる春のうしほに育ちたる若布か水に浸せば匂ふ
太々と葉をひろげゐてクレパスに児のゑがきたる水仙の花
目覚ましの電池の切るる頃ならむ不意に思ひて落ちつかずなる
絨緞に音を吸はせて何事をなし来し人か歩み去りたり
背後など母に似て来しわれならむ狼煙を仰ぎゐるとき思ふ
タクシーの窓のガラスの幅だけの帯のやうなる枯れ野を行けり
人の手に刻まれて立つ像ながらはろばろといます観音像は
分れ道とふ地名の残り青々と雑木の原の萌えわたりたり
雨あとは虫の祭の日ならむか蛾も蝶も出でてはたはたと飛ぶ
横文字を石に刻める表札の古りていかなる外人の住む
あたたかきゆふべを帰るわが上を今年はじめて蝙蝠が飛ぶ
つぎつぎに朱の色を噴くサボテンの花の速度にもわれは及ばぬ
母のいまさば問ふことあらむ遥かなる火祭の夜を恋ひつつ眠る
はろばろと幟なびけて虫送りの行列などはいづち行きけむ
火をつけて放つ矢などは持たねども美しからむ夜空に曳きて
ループタイに何のメダルか光らせて歩むならむかかの人なども
人の声頭上より降り電線を持てる工夫の地上にもゐし
透明の縄にいましめられてゐてわれならぬ声にもの言ふ日あり
襟もとをゆるむるやうにほぐれゆく花菖蒲見てひと日見飽かぬ
明けそめて沼のほとりのうすあかり思ひつつまた眠らむとする
一枚の古りし名刺に乱されてこころもとなくゆふべををりぬ
昼過ぎてまたたどきなく眠りゆく術後熱とぞ聞きて知れども
隣室の声意味なしてはげしきはわが耳冴ゆるたそがれのころ
雲を見てひと日ありしが山の端はげんげの花の色に染みゆく
誰がためのいのちと問ひてはかなきにわれの病の日毎癒えゆく
渋滞の車さへ今こころよく退院せるわれの運ばれてゆく
病院を出づれば秋のたつきあり藁を焚く香の道になづさふ
親猫と子猫とむつみゐたるのみ陽ざしあまねき枯れ野を渡る
全開の音量といふも知らず経て雨の夜更けに聴くモーツアルト
旅行きて遭へるくさぐさ聞きをれば北上川に降る雨も見ゆ
くくり椿運ばれゆけり癒えし身に通ひ慣れたる道も新し
降り出づる気配言ひつつ別れ来ぬ互みの傘を確かめあひて
ケニアなど行く日もなくて終らむか縞馬の絵を見をれば思ふ
いつとなく人に頼れるわれならむ部品の名など覚えてをらず
新米といふを賜ひぬとぎをればとぎてゐるまにこころしづまる
ふるさとを同じ北国と知れるのみはだれのやうな雲の湧く日よ
病室は六畳ほどか出で入りに薔薇の匂ひの乱されやすし
点滴の痕を幾つも身に持ちて縛られやすく日々の過ぎゆく
浮世絵の波の色よりなほ青く幾年も見ぬ海がひろがる
横顔のまま歩み去る像ならむ髪の飾りの羽毛が白し
手の届く範囲にものを置く習ひ乱丁の辞書もかたはらに置く
暖房の部屋に置く供華たちまちに心やつるるさまに衰ふ
言ひつのる口もとを見てゐたりしが次第にわれの戦意失ふ
いくひらの椎茸を水にもどしおきわれにしづかに年暮れむとす
似かよへる顔を探して何にならむ石仏はみな雪をかづける
旅先の雪に作れる雪うさぎ庭石にのせて別れ来にけり
白梅は咲き終りたれ福寿草のつぼみニ粒いまだ開かぬ
亡きあとの月日流れて梁にかかれる大き魚拓も古りぬ
黄の花の多き季節よ人は去りまばらに墓の取り残されぬ
日曜は目ざましも鳴らず病院の朝のめざめの如きしづけさ
花も葉も夜は閉ざすとふ草の名を数へあぐみてなほ眠られぬ
ゆるやかに鰭をゆらして魚のゐるけはひと思ひ夜半を醒めゐつ
しはぶける一人まじへて幾人か坂のぼりゆく夜の人声
夜の鳥のかすかに鳴きて過ぎしあと家のめぐりのしづまり返る
いまだ見ぬうすずみ桜思ひゐてわが目の前のふとくらみたり
わが住むは平野のもなかくれがたに見ゆるのみなる何山ならむ
バスに見て過ぐる校門偶像のごとく崩れし雪の像置く
われの道蝶の道目に見えねども古地図に江戸の街路ととのふ
しろじろと煙ひろげて朝より川の向かうは何をか燃やす
絵本見てゐたる児の忘れゆきにけむ玩具の鳥を誰かの鳴かす
稚魚あまた一夜に死して水面に散りたる花のごとく浮かべる
人の持つ習ひに似むかかたまりてやがて散りゆく魚を見てゐし
釣り人の老いたる見れば亡き父の釣り竿などのいかになりけむ
いつの日の逢ひとも知れず石仏の肩に夕陽の届きてゐたる
つね仰ぐ欅の木ぬれて宿り木の黒きかたまりなす夕まぐれ
幾つものトンネルを抜けて旅ゆけば改まる如しわれの思ひも
しろじろと谷のへに咲く何の花と見分かぬ速度に汽車は過ぎゆく
未だ雪の残れる木の間山神をおろしまつると里人の寄る
山あひの棚田のほとり木造の小さき校舎ありてしづもる
能登の浦は夕凪のとき遠く来て人に負ひたる傷も癒えむか
旅人と何か変はらむ血縁のひとりさへなき故郷に泊てて
堂深く窓の明りに仰ぎ来し十一面観音は目とぢても見ゆ
若草いろのデミタスカップ旅先に妹のありし日をまた思ふ
それぞれの闇をまとひて立つ木々に混りて立たばわれは何の木
蕗の葉の大きく開くしづけさに石の手を組む石の羅漢は
くろぐろと森の芯より暮れそめてきらめく如きひぐらしのこゑ
目の下に短き橋のかかりゐて身ぶりさまざまに人の行き交ふ
人の声やいばをなすと聞きをれば真実胸のへの痛みくる
言ひ出づることにあらねど思ひゐてわが切先のひらめきはじむ
ゆで玉子をむきつつあれば指先のいつしか荒れて秋は来向かふ
夜に入りて雨呼ぶ風のはげしきに門火も焚かで送りまつりぬ
肩のへのまろやかにしてつめたけれ花を捨てたる壼を拭へば
野菜籠をさげて歩めば主婦の顔に見ゆるならむか日傘のなかに
乾きたる砂に半ばをうづもれて貝殻はみな海の傷持つ
銀いろのタンクの遠く見ゆる窓何の合図か送られやまず
香水の匂ふ石鹸あわだてて勤めを持たぬ朝のしづけさ
むらさきに片照る山よ秋づきて雲のかたちのやさしくなりぬ
ふるさとに夜泣き石とふ岩ありき思ひ出づるは霧の夜ばかり
傍らにありにしものを鳥などの飛びたつやうにわれを去りにき
眠られぬ夜とまたならむ柩に入れし手毬の色のよみがへり来て
指先の動き思はせベルベットの薔薇はやさしく花びらを巻く
幾重にも鏡に映るシャンデリア何におもたきわれの思ひか
敷き置けるムートンの白小羊のかたちに立ちて歩む夜なきや
古傷を胸に持つゆゑあらかじめ言葉飾りて防がむとせり
電線のどこかもつれてゐたりしがいつしか地上の闇にまぎるる
働きて過ぎにしひと世嘆かねどみ胸ゆたけしマリアの像は
もみぢして明るき木の間道標も立たず岐るる道ありにけり
背後よりのぞき来にしが少年の拇指におさへてゐたるパレット
抜け穴の出口の如く草深き窪みのありし道を来りぬ
誇張されて伝へられゐることあらむ秋の薊は紫の濃き
年の瀬の賑はひのなか喪の帯を小さく結べる人と連れだつ
こもりゐの正月と電話に答へつつみづからを諭す言葉の如し
オルゴール短く鳴りて鳴り終へぬ人のをらざる隣の部屋に
ひっそりと何か煮詰めてゐる如し亡き母のひとり厨に立ちて
買ひ戻すこともせざりし父祖の田を埋めて雪は降りつもりゐむ
一気に遠き職場となれどたまひたるライターはつね傍らに置く
いつ使ふ指とも知れず春立ちてひびわれやすし右の中指
焼け跡を映す画面にただ一つ椅子のかたちの燃え残りゐし
会釈して若き尼僧の過ぎしあと白梅の花のうつすらと湧く
枯れ草の底より風の湧くごとし釣り人はみな孤独のかたち
救はるる思ひのごとし戒名の清き妹の墓に参れば
ひと刷毛の雪の残れる墓原の枯れ葉鳴らして鳥の飛び立つ
嘆きつつ一夜をあればかたはらの孔雀の羽根は大き目を持つ
桟橋の下も荒海たえまなく波のひびきは胸もとに来る
坂道を降り来てより道暗し余熱のごとき悔いも過ぎゐる
もやもやに写し出されて木の如しあばらといふを持てるわが胸
胡蝶蘭の最後の鉢も枯れしめぬ風邪がちに冬も終らむとして
ひとりゆく旅のさびしさ浜名湖は風にたわみし水見えわたる
春の夜の雨ともあらず音あらく降りつぐ雨を聴きて醒めゐし
落葉松の芽ぶきのときに来会ひたりしろがねなして雨の渡らふ
水濁る運河のほとり気がかりを散ぜむすべもなくて歩めり
旦夕に追れりと知るみいのちのとめどもあらず雨降りしきる
急がねばならぬことあり急ぎても間に合はざらむ涙出でくる
石仏の肩もつめたくおはすらむ八重の桜を散らす雨降る
声あげて泣きて醒めしが現にも夢にもおはす先生ならず
先生のいまさずなりて三彩の馬の置き物を見るはさぶしも
み柩に黄菊白菊入れまつるこの世の顔をよせあひにつつ
みそなはしいまさむと思ほえて橋に掛ける歩度ゆるみたり
仕へたる三十四年ひとたびも叱り給はざりしことも思ほゆ
東京へ出づる日つづきこの夏は夾竹桃の白も喪の花
われのみの知れる忌の日の巡り来て今年の梅雨は未だあがらぬ
ゆるやかに二つ寄りゐし流灯の早瀬となりて相別れゆく
何を売る嫗と知れず立ちゐたり母かと思ふ姉かと思ふ
精霊舟の燃えて流れてゆきにしが醒めて思へばふるさとの川
いくばくを眠れるひまにうすらなる繭をかけゐき小さき虫は
逃げ水の幾つをバスに越えにつつゆきつく先もおほよそは見ゆ
日ぐれとも朝ともつかぬ薄明につつまれて死といふはあるべし
断ちがたく思へることをそのままに雲大いなる高原に来ぬ
標高を問ひつつゆくに山国の紫陽花の毬はいまだ小さし
花の香にまみれて過ぎて見返れば黄菅の色の原がひろがる
駅の名を見落として過ぎてあわつるも常のことにて荻窪に来つ
みちのくの訛りある声後方にしてゐしがバスはトンネルに入る
曲り家は今も残ると伝ふれど馬のにほひを久しく嗅がぬ
美容院の午後四時大き男来てリースのゴムの木の鉢を置く
腕力も年毎に衰へゆくならむ片手には重き辞書となりつつ
ドアの外は夕焼けの街信ずるよりほかなく医師に励まされ来ぬ
限られし視野と思へど鯖雲のうろこは遠くひろがりゆけり
似合ふとふレースの服を着て出づる今日の講座の滑らかなれよ
起き出でて靴を履くまでの一時間あわただしかりし朝々ありき
曼珠沙華の花はテレビに見たるのみ秋の彼岸も終らむとする
傾きて立つ松林秋の海の風見の羽根はすぐひるがへる
熱気球は忽ち遠くゴンドラに振るハンカチのひらひらも消ゆ
返り咲くはまなすの花見て来しにやいばの如く光る波寄す
砂山を降りてほどきて体温よりかなり冷たき手と思ひたり
吊り皮に男の立ちて夕凪の海の見えゐし視界ふさがる
先生のいまさぬ思ふ仙台の駄菓子のねぢり折りてはみつつ
早馬を駆りてゆきなば何を見むサラブレッドは目の前を過ぐ
人形の斬られてがばと打ち伏せばいづこかわれの関節ゆるむ
石鹸の匂ひのあらぬ石鹸もこころもとなし今朝の寝醒めに
結論のまろびて出づることなきか瞼の重き日の続きをり
ナレーションの絶えし画面に音もなく噴水三基もりあがりゐつ
方向音痴のままに終らむひと世とも見知らぬ坂を従きて登れり
持ちあがらぬ大き袋は何なりし何を運びゐし夢かと思ふ
水玉を小さくあげて沈みたり薔薇のかたちの砂糖二粒
目分量の塩を掴みて振りゆくにしなふは菜ともわれとも知らず
道の上に不意に日ざしの濃くなりて鈴懸の木の影を踏みゆく
持ち時間幾何われに残れるやハングライダーを飛ばす若きら
春の日は傾きそめてゆるやかに弧を描きつつ波の引きゆく
土手の上を駆けゐる子らの影絵なす一時ありて海暮れむとす
バスの来てその儘乗りて行きにしが真顔に何を告げむとしたる
東京の空にひばりのあがる見て電車は王子の駅に入りたり
日本は如何なる国かフルートを吹ける異人のをとめに思ふ
いくたりを見送りにけむ遍路して果てむ願ひのよぎることあり
十四年ゐたる犬なり今会はば生きてゐし日のままになつくや
しづかなる夜となりたり届きたる大判の辞書を机に置きて
うづもるる思ひにをればテレビの中の陽明門にも雪降りしきる
夕焼けを見むと二階の戸を繰れば川原を埋めし雪も染まれる
遠景に相争へるさま見えてそのまま雪にくづほれゆけり
行き違ひになりたるのみと知るまでにまた重ねたる歳月ありき
かなしみの漸く過ぎてしづけきに前触れもなくまた何が来む
つらなれる古墳の丘は稜線のけばだつさまに芽ぶきそめたり
桐の実の鳴ることもなく立つ見ればあはく渦なす思ひも過ぎぬ
植ゑぬ田のかたちに芦の枯れ残る広野の道をバスにゆれゆく
病むことは何もせぬことたゆたひて繭なす雲を窓に見てゐる
駅前に駐在所ありてふるさとは雪解の水のささらぐころか
風邪に寝て一日をあれば知らざりし日中の音のくさぐさ聞こゆ
黒豆を煮て浮く灰汁をすくひつつすくひ切れざる澱もあるべし
好奇心の強い子と言はれ育ちにき日に幾たびも辞書を引き寄す
こみあへる葉をぬきんでし著莪の花紫と黄のまだらがあはし
乱るるはわが言の葉よ噴水の風に吹かれてひろがりやまず
幾月か空き家となりてゐし軒に風鈴吊られうれしげに鳴る
ユツカ蘭のまだ珍しきころなりき移り住みたる大宮に見き
夕焼けに染まるガラスを見てをればつくねんとわれは黒き塊
背後より襲ふがごとくかたはらをすりぬけて行きし無灯自転車
呼びとめて何ひさぎゐし人の影ビルのあはひに吸はれてゆけり
リラの雨くちなしの雨と過ぎゆきていま軒を打つ夕立の雨
気にかかりゐたりしが今朝の外電は事故によるとふ死因を伝ふ
つねよりも大きく見ゆる路線バス暗き顔のみ乗せてとまれる
一滴の黄の除光液たちまちにコットンに吸はれてまるく広がる
マニキュアをしをれば不意に騒立ちて時雨の音の窓を過ぎゆく
かなしみの身に添ふごとし夜の更けて盆燈籠を組み立てをれば
眠られぬ病を持ちてコーヒーも紅茶のたぐひもいつしか飲まず
行き止りに幾度も出会ふ夢なりき最後は如何になりしや知れず
砂利はじく音をあらはに人声の絶えししじまを自転車行けり
気のつけば指輪ゆるめる薬指思ひ痩せつつ夏過ぎむとす
病みをれば思はぬいとまの湧く如しモーツアルトをFMに聴く
うす味の食事にも慣れてゆくらむか心もとなきことばかりなる
ゆるみゐるコートの釦そのままに出で来て遠しバスまでの道
つくばひに苔むしてゐつ隙間なく十薬は生ひて花かかげゐつ
ちぎり絵を始むと言へり捗りてたのしからむとわれさへ思ふ
拾ひものをせし如き今日の暖かさトルコ桔梗はみな開きたり
上空は風あるならむ音立てて木の実降りつぐ落ち葉の上に
真っ黒の牡牛は目のみ光らせてにれがみゐたり油彩のなかに
所在なくバス待ちをればたかむらは風のまにまに透きて明るむ
うす皮を一枚一枚剥ぎゆきて何に到らむわれとも知れず
刻印を打たれし材木積まれをり小さき駅舎を出でて来つれば
ゑのころ草吹かれゐるのみ石仏はすでに祠におはさずといふ
欄干は鉄のつめたき手を打ちて呼べば寄り来る鯉ありにけり
棕櫚縄の切り口未だ新しき筧と見つつ木戸よりの道
さまざまの花押を繰りて見てゐしが滅びて人の残すかたちよ
漂ひてゐし夢のなか去るものは声も立てずに身をひるがへす
のがれ得ぬ罠にかかれるわれならむ結果はたちまち原因をなす
あきらめて眼鏡拭きをれば点かざりし蛍光灯の音してともる
いづこよりうつされて来し風邪ならむ臘梅の花も匂はずなりぬ
救はるる魂をわが持たざれば十日病みたる顔をとがらす
強がりを言ひて来にしがネックレスはづせる襟のときのま涼し
忘れゐし記憶を呼びて飴いろに古りたる竹の物差が出づ
霧吹きて根元うるほす朝々にシンビジュームは絹のつや持つ