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目録ID ku036001
タイトル. 版. 巻次 冬の箴言
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現代新鋭歌集
冬の箴言
伴ひて遁れむといふノアもなし裾濡らし雨の鋪道を帰る
かたはらに置くまぼろしの椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は
アンダルシアの野とも岩手の野とも知れずジプシーは彷徨ひゆけりわが夢に
ドラマの中の女なら如何にか哭きたらむ灯を消してわれの眠らむとする
忽ちに遁しし幸よ用のなくなりしリキュールグラスを磨く
いつまでも待つと言ひしかば鎮まりて帰りゆきしかそれより逢はず
帰らざる幾月ドアの合鍵の一つを今も君は持ちゐるらむか
翳ばかり見るごとき日の続くなり壁の絵をドガの踊り子に替ふ
折り合ひのつかぬまま今日は別れ来つ夕べの霧に耳がつめたし
水びたしの日本列島と思ひめざめゐつ夜の更けてまた降りつのる雨
たそがれの湖を愛すと彼は告げきひそかに恋はれてゐしにあらずや
陽の昃れば忽ちデュフイの海となりスカートをふくらませてわれも佇つ
カルメンのやうな女と言はれつつ寂しき性の友と知るなり
醒めかけてまた夢見つつ幾たびか潮満ち来てわが身をひたす
カシオペアの夜々澄む季節めぐり来て古き星図を書棚に探す
巣ごもれる幾組のインコ夜の貨車の音にめざめてひとしきり鳴く
せめて深き眠りを得たし今宵ひとり食べ余したる林檎が匂ふ
霧深きロンドンの街をゆける夢醒めて寂しも身の冷えてをり
縛めを解き合ふごとくありたきを晦みただよひ昨日今日過ぐ
妻として最後の逢ひとならむ夜のよるべなき身を燈下にさらす
醒めぎはの夢に何言ひしや大きく光る目持てる埃及壁画の女
わかちもつ遠き思ひ出あるに似てひそかにゐたり埴輪少女と
手に重き埴輪の馬の耳ひとつ片耳の馬はいづくにをらむ
笑ふ埴輪と泣く埴輪並びよるべなし不意に窓より海の匂ひす
失ひし版図を億ふごとくゐて草なびくとき尾根光る見ゆ
距れは性もわかたぬ土偶にてうながす声のもはや聴かれず
逸れ矢など飛びては来ずや葦の間を縫ひて汀へ帰るヨットに
流亡の相と言はれし中指の渦紋も夏の手袋に秘む
波瀾呼ぶたくらみにみづから溺れゆき見えぬプールに水音うごく
電光にをりふし深く射られつつぞめく森あり夜のまなかひに
完きは一つとてなき阿羅漢のわらわらと起ちあがる夜無きや
稲の花の音なくそよぐ夜とならむ古墳のかげ野を蔽ひゆく
ジギタリス交錯し立つ夜の庭闇をふかめて誰か人ゐる
遺されし塑像が招く追憶に故意にはぐれて逢はぬ夜ありき
菜の花に鳥ひそみ啼く日なりしをへだてて今も疎水の声す
嚢み置くことも激しき消耗と夜更けのプールサイド過ぎゆく
乱心を装ほふ罪もをかし得ず過ぎてさびしき執念のあと
たどきなく耳を澄ませば身もだえて落葉を急ぐ樹々と思ほゆ
歩みつつ振り返る視野昏れてゐて海藻のやうに枯れ木がゆらぐ
うとくして今日に変らぬ明日あらむ重たき帯と思ひつつ解く
いづくにかひとりでに開く窓あるや闇のなかにて花の香うごく
風落ちて夜霧は街を蔽はむにあなうら冷えてながく醒めゐる
身を交はす構へに歩む街の上まぼろしなして雁流る
踏みはづす夢ばかり見て来しわれか霧のなかより繩梯子垂る
へだたりを確かめ合へば足るごとくドア押して出づ夜霧の街に
袖刳りの曲線を裁つ手もとより夜のほとぼりも失ひ易し
如何ならむ反証も今は待ちゐぬに耳澄ますごとき夜のをりふし
待たれてゐて急ぐがごとく一方に光る穂絮の空を流らふ
太幹に矢じるし白く彫られゐていざなふくらき林の奥へ
浜荻のみだるる河口水昏れてひそかに思ひさかのぼらしむ
闇と闇をつなぎてひらく門ありき寂しみて夜の大橋渡る
春めきてゆく朝々に着惑ひて変りばえせぬ服ばかり持つ
校正に倦みて思へば石工は石に漬ゆる夢なども見む
皮相のみ追ふごとくしてわが中に活字にし得ぬ記事溜りゆく
わが窓に遠く雌松の大樹あり剥離は日々にひそやかにして
ぬけがらを置きてとび立つすべなきに洗ひし髪のたちまち乾く
離ればなれの心となりて歩みゐつ坂のぼりつめて点る駅見ゆ
安らぎに似つつ不信をはぐくむに栗の花咲く木立明るむ
夕占をこころむるがに仰ぐ空母さへ今の絆となるな
落ちてゆく眠りのなかにまざまざと見えて昇れぬ楷梯を持つ
責めたつるみづからの声にめざめたり夢のなかにてわれは烈しき
貝殻いろにかがよふ雲をかすめゆく一機地上はすでに昏れゐて
うしろ向きの人のみ歩むユトリロの絵と見ゐて不意に心陥る
ひといろに昏れて影なす苧環の花踏みわけて遁れ得べしや
かたちなくわれのゆくてを阻むもの羅刹の貌をして現れよ
塑像にてしづかに双手あげゐたり雨に八つ手の花のけぶらふ
ふるさとの樹氷の山の幻聴を呼びて月さす芝生かがやく
いつのまに東京を去りし友ならむ風の中に麦踏む日々と告げ来ぬ
前髪に雪のしづくを光らせて訪はむ未知の女のごとく
わが合図待ちて従ひ来し魔女と落ちあふくらき遮断機の前
草萌えの牧場のかなた茫洋を限りて白き柵をめぐらす
街にて不意に逢はむ日などを恋ふのみに白木蓮の花も畢りぬ
裏通りをひろひて歩むごとき身と静かなる日に倦むことのあり
指貫をはめしままなる夜の眠り夫の記憶もはるかになりぬ
はばたきて降り来しは壁のモザイクの鳩なりしかば愕きて醒む
足り易きこころみづから寂しみて沼のほとりを朝々かよふ
釈明を下待つわれも寂しきに落ち葉は深し轍うづめて
鉢の外に魚のはみ出しゐる童画はみ出て赤き尾鰭がそよぐ
塗りつぶしゐる夜の時間風疼く雑木林を背後に置きて
落飾し終れる古き物語りきりきりと堪へてゐる日々に恋ふ
突き落とす刹那に醒めし夢のあと色無き雲の流れてやまず
風のなかに身を反らしあふ冬の木々けぢめなく待つ時間流れて
駅を出でて枯れ野の口に懸かる橋バスを渡してより渡りゆく
流れつつ向きを変へゆく芥見つ箴言などに拘る日にて
栃の実のたえまなく降る木の間ゆゑ夜すがら木菟の鳴きとほしたり
降り出でて石の粗面を濡らす雨人も蹤きゆく犬もしづけし
手懸りのなくて歩むにいりくめる道のいづくにも木犀匂ふ
同じバスに乗りあふのみの日々過ぎて今朝は静かに霧降る広場
いだきゆく鉢の桜草花ゆらぎ言ひそびれたる語彙が重たし
結末をみづからも知らぬ物語り書きつぎて二人を今日は逢はしむ