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(一)大内義弘

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 大内義弘は周防權介弘世の子、父の後を繼いで從四位上に敍し、左京權太夫に任ぜられた。文中三年四月九州探題今川貞世と九州を攻略し、功を以て豐前の守護となつた。元中八年山名氏清を二條大宮に擊破し、九年功を以て紀、泉兩國の守護に任ぜられた。是に於て、防、長、石、豐を合せて、【六國の守護】六國の守護を兼ねることゝなつた。二月義弘、山名義理を紀伊に攻め、其途中西山、土丸の諸城を拔き、義理は敗走し、氏冬は終に降つた。【南北講和の旃旋】後南北兩朝の和議の成れるにも與つて力あつたが、【堺浦敗死】應永六年十月堺浦に據つて義滿に背き敗死した。享年四十六。法名を香積寺秀山佛實といふ。此時堺浦の民家一萬餘屋兵火の災するところとなつた。(應永記)