小西行長は彌九郞と稱し、如清の子として豐臣秀吉に親任せられた。長じて驍勇兵を好み、屢々戰功を立て、食邑一萬石を加へられ、從五位下内匠頭に敍任せられ、後攝津守と改め、累ねて食邑十萬石を加へられ、【肥後半國の封】遂に天正十六年に至り肥後半國に封ぜられた。乃ち二十四萬石を食み、宇土城主となつた。偶々釆邑天草の地に土寇起り、勢ひ猖獗を極めたが、加藤清正の來援を得て之を平定した。【文祿征韓の役の戰功】文祿征韓の役には清正と並んで先鋒となり、駿馬大黑號を與へられ、藥囊を標旗として奮戰し、釜山城を陷れ、進んで王城に入り、平壤を陷れた。慶長再征の役再び先鋒となつて各地に轉戰し、秀吉の薨ずるに及び、兵を收めて歸還した。【其末路】慶長五年石田三成に黨して、關ヶ原に戰ひ、一敗地に塗れ、遂に竹中重門の手によつて近江草津の陣營に送られ、十月朔日三成等と與に京都に於て斬首せられ、三條河原に梟せられた。
日本西教史に據るに、【基督教徒としての行長】行長は英邁勇智の基督教信者で、ドム・オーギユスタンと稱し秀吉に愛せられ、洗禮を受けてより頗る溫和謙讓の人となつた。信者として其領内に基督教教師及び其信者十萬餘人を保護したといはれてゐる。關ヶ原の役西軍に黨するや、豫て其勝敗の決し難きを知り、出陣の前に方つて屢々祈念を凝し、教師に請ふて遺すところなく懺悔の式を行ふた。其戰には奮鬪して名譽の戰死を遂げんとしたが、不幸にして捕虜となつた。其獄中に在るや、唯天主の冥福を冀ひ、吾が罪業の消滅を祈り、恥辱苦惱を以て死に就かんことを希ひ、マリヤの名號を唱へ、寸時も手に念珠を放たなかつた。而して其最も希望したことは、基督の如く恥辱を蒙り、街衢を引廻はされ、刑死に處せらるるにあつたので、自殺をなさず、其死罪に定まるや、刑日面縳して駑馬に乘せられ、大阪の市街を引廻され、次いで京都に護送せられた。京都では肩輿に乘るのみで、大阪に於けると同樣の取扱を受けた。而も其面貌は平生と異るところなく、刑場に赴く途中に於て、佛僧等は教悔の式を爲さんとしたが、基督信者であると大呼して之を斥けた。【刑場の動作】既に刑場に至つて縳を解かれたが、行長は主の名號を唱へ、手に基督の小畫像を捧持した。佛典を戴くを拒み、雙手に主の畫像を捧げて刑に就いた。遺骸は宣教師によつて埋葬せられ、訃報羅馬に達するや、基督教會の主長アカウヰヤーは、行長を以て教會の恩人として羅馬市民に祈念し、且修齋供養することを命じたといはれてゐる。
刑死に際し、【遺孤の刑死】毛利氏に託された年齡十二歳の遺孤は大阪に送られて遂に悲愴なる最期を遂げた。(日本西教史下)