宗熈字は春浦、巢庵と號した。播州赤松の人、(紫巖譜略)法を養叟宗頥に嗣いだ。幼にして業を建仁寺の乾心に受け、十八歳薙髮受具し、藏鑰を司どり、次いで大德寺養叟に師事し、寬正二年十一月勅によつて大德寺の第四十世を嗣いだ。(龍寶山大德禪寺世譜) 既にして應仁、文明の亂、紫野の伽藍悉く兵燹に罹り、【陽春庵來寓】戰禍を堺の陽春庵に避くる事八年、廷議再び紫野に歸住せしめた。延德二年十二月後土御門天皇は、特に正續大宗禪師の號を下賜せられた。明應五年正月十四日世壽八十八を以て示寂し(龍寶山大德禪寺世譜、本朝高傳傳卷第四十二)松源院に葬つた。(龍寶山大德禪寺世譜)