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(一四〇)小西如清

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 【堺の藥種商】小西如清は彌十郞と稱し、累世堺に住して藥種商を營んだ。(堺鑑下)宿屋町大道の北寄東側に邸宅があつたと傳へられて居る。彌十郞富有にして才覺辯舌あり、浮田直家と親交があつた。天正中豐臣秀吉播磨にあつて毛利氏と對陣に際し、直家の向背は戰局に影響するところ少なからざるを以て、秀吉の召に應じて盟約を結び、功によつて領地千石を與へられた。後薙髮して如清と號し、(堺鑑下)文祿二年病歿した。(日本西教史上)
 【基督教徒としての如清】日本西教史によると、如清は基督教信者となり、ドム・ジョアシーム・ルーイと稱した。秀吉曾て人と爲りの謹嚴篤實なるを知り、教徒たるに關らず之を重用した。而も老齡重任に堪えず、遂に那古耶に於て病に罹つたが、京都在留耶蘇教社の長官オルガンタン師に生涯の懺悔をなし、末期の法式を受け、病危篤に瀕するに及び、死後神佛信者の儀式を以て埋葬せられんことを恐れ、堺に歸つて療養せんことを希ひ、京都に移り、病室に天主の禮拜所を設け、十字形を乞ふて之を捧げ、恭しく之に接吻し、耶蘇及び聖母マリヤの聖名を唱へ、從容として瞑目した。【歿後の施與】生前の希望により、夜中竊に埋葬せられ、又遺言して京都の基督教寺院建築の爲めに、金二千デュカーを寄附し、尚基督教の篤信者及び其教を奉ぜんとする病者五十人を收容する爲めに、堺の市街に病院一棟を建設したと見えてゐる。(日本西教史上)