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(一)良純法親王

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 【後陽成天皇の皇子】良純法親王は後陽成天皇の第八皇子、御母は庭田權大納言重通の女源大典侍具子である。慶長九年三月御降誕、八宮と號した。(皇胤紹運錄、系圖綜覽)同十九年十二月親王宣下、二品に敍し、元和年中德川家康の猶子となられ、(皇胤紹運錄、系圖綜覽)同五年九月知恩院に入室得度して良純法親王と稱せられた。【知恩院門跡の初祖】同院門跡の初祖である。(諸門跡譜)【甲斐に配流さる】寬永二十年十一月事を以て甲斐天目山に配流せられ、(皇胤紹運錄、系圖綜覽)現山梨縣西山梨郡相川村下積翠寺の禪院興因寺の衆寮を修繕して坐所に充てた。(大日本寺院總覽)【歸洛】【墓所】萬治二年六月歸洛して泉涌寺に住せられ、寬文四年四月還俗以心庵と號し、北野にゐましたが、同九年八月享年六十六歳を以て薨じ、泉涌寺に葬つた。明和五年八月其百年忌に當り、本位に復し、无礙光宮と諡した。(皇胤紹運錄、諸門跡譜、系圖綜覽)【入手道の妙手】親王は多才にして能書の名があつたが、亂行甚だしく、酒興に乘じて他人を殺傷に及ばるゝことがあり、一時踪跡を晦まさるゝことがあつた。【堺隱栖】寬永の末年大垣城主戸田采女正の家臣山本多右衞門主命を帶びて屢々京、阪、堺に來往し、當所に來る每に、大小路に旅宿するを例とした。隣家に宮川八左衞門と稱する由緖ありげなる浪士があつて、偶然の機會に懇親を重ぬるやうになつた。一日八左衞門の曰ふ、客の手跡は頗る見事ではあるが、修鍊の功を積まずして野趣がある、臨本を遣すから習ひ給へとて之を貽つた。多右衞門之を見るに、誠に絶世の能筆であつた。感歎久しうして更らに和歌の染筆を乞ふたが、望むがまゝに金銀を鏤めた色紙、短冊等數十枚を與へられた。其後多右衞門歸鄕し、翌年復堺に到り、八左衞門を訪ねたが、最早行方知れずになつてゐた。そこで不審を懷き、家主に尋ねると家主は、其八左衞門は假名、實は後陽成天皇の皇子八宮で、京都を失踪して此處に僑居せられ、去年の冬探ね出され、牢輿に乘せられて連行かれた事情を語り後にて聞くと甲州天目山に配流せられたるよしである、我等もそれとは知らず暫く懇情に預かつたが、實に痛恨事であると云つた。多右衞門大に驚き、我等は唯一介の武辨とのみ信じ交情を重ねたが、寔に不敬の至りであつたと、涕を流して後悔した。後親王は甲斐の謫所興因寺にあつて「降雪も此山さとはこゝろせよ竹の園生の末たはむ代に」との和歌を詠じ、所緣を求めて之を京師に貽られ、叡聞に達してやがて勅免歸洛されたのである。此物語は山本多右衞門の玄孫松平伊賀守忠順の家臣内藤又左衞門貞眞(剃髮して文川と號す)が、曾祖父の談話を傳へたものである。(川岡雜談)