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(一一)齋藤寬治

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 寬治始めの名は元長三郞右衞門尉と稱した。【本多忠村の老臣】大和國郡山の城主本多忠村の老臣であつた。(墓誌)忠村は享保七年九月纔に十三歳を以て卒去し、嗣子なく國除された。(寬政重修諸家譜卷第六百八十二、墓誌)【堺隱栖】是に於て元長堺に來つて隱栖し、名を寬治と改め、十六年三月壽塔を遍照寺内に建て、本多侯の舊臣たることを記し、以て之を子孫に貽した。寬保二年十一月三日歿し、法號を光源院薰譽照音寬治居士と稱した。【子孫】其子利直は下總佐倉藩主堀田侯に出仕し、孫利雄、弟豐久同じく同侯に仕へ、藩主正順の大阪城代となるに及び、共に從ふて同地にあり、寬政三年祖父寬治の五十年忌に遭ひ、賜暇を得て墳墓を拜し、冥福を祈つた。(墓誌)