贄正壽始め
越前守、後安藝守と稱した。食祿三百石、(茅溟刺吏鑑)寶曆元年三月歳十一伽衆となり、五年十月西城の小姓に列し、六年十二月從五位下壹岐守に敍任した。【堺奉行】七年十二月家督相續、十年五月より本城に勤仕し、天明四年七月堺奉行に任ぜられ同十一月赴任した。(文化十年手鑑、茅溟刺吏鑑)歷代奉行中錚々の人物であつた。【堺市民の留任運動】寬政五年四月事を以て參府を命ぜられた際轉職の風評あり、出發に際して市民之を惜しみ、大阪城代に對し、再勤の願書を提出した。(文化十年手鑑)【食祿增】五月幕府は正壽の治績を嘉し、且つ市民の衷情を察し、武藏比企郡内に於て食祿百石を加增し、歸任せしめた。【治績】在職中天明の飢饉にはよく處置を過たず、又
吉川俵右衞門の築港事業を助け、工事中に土砂の運搬所謂砂持始まり、市中殷賑を極めた。正壽工事の揚所に出馬して、手傳の町人等へ一々神妙との詞をかけ之が爲めに人々更らに力を得、一層工事が進涉したと云はれてゐる。(堺御奉行代々記)七年九月病に罹り、十一月十九日卒去、享年五十五歳であつた。【墓所】湊村に荼毗し、
南宗寺に葬つた。(茅溟刺吏鑑)墓表に寬量院殿從五位下前藝州刺史海印紹信居士と見える。
第四十五圖版 贄正壽墓表