堀山聖揆諱は達、初名は一也、權三郞と稱した。持中の季子で、天明四年家を嗣いだ。人と爲り聰敏吏才があり、與力として數職に歷任し、重要の任務に就いた。寬政中堺港灣開鑿の際には、聖揆奉行贄安藝守の命を承け、工事監督の任に與り、前後四年竣工を見、海運の便再び舊に復した。【功績】官功績を賞し、白銀五十兩を下賜した。聖揆平常在廳の議事亦皆效績あり、上下に信賴せらるゝこと厚く、數次其勞を賞せられ、前後贈らるゝところの金銀繒帛夥しきに達した。【墓所】寬政六年以來病褥に在ること凡そ六年、享和三年六月十四日享年三十七歳を以て歿し、安養寺祖先兆域の次に葬つた。法諱を勝信院智勇居士といふ。同僚食橋氏の子光之をして職を襲がしめた。(墓誌)