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(四一)磯矢賴母

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 磯矢賴母諱は可信、字は士行、如流と號した。與力辻村正靜の子である。幼にして磯矢照信の義子となつた。天保四年大鹽平八郞の亂に、大阪東町奉行所附の與力多くは其籍を沒せられた。【大鹽亂後復職】變後官職に適するものを召して、居宅及び食祿を復するに及び、賴母亦同九年十月特に召されて、邸宅及び食祿二百石を附與せられた。【人と爲り】人と爲り、謹愼清忠、上司の信任厚く、同僚親族亦悅服した。【功勞】諸司に歷任して功勞あり、褒賜を受くること凡そ七度に及んだ。【學藝、武道】幼より文武の道に志し、陽明學を奉じ、米芾の書法を慕ひ、又善く和漢古今の書畫を品隲し、弓槍、劒拳の法皆奧旨を極め、傍ら茶湯を愛好した。【大阪城南湟修築の功】嘗て大阪城南湟の石壘を修築の際には、命を受けて其衝に當り、土浦侯の信賴を博した。安政三年冬疾に罹つたが、猶ほ公務を怠らなかつた。【墓所】次いで翌四年三月病勢進み、城代醫士を遣して慰問し療養に努めしめたが、遂に同年四月五日享年五十二歳を以て歿した。大阪天滿東寺町成正寺に葬り、法諡を日行といふ。(墓誌)