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(六一)日審

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 日審字は文嘉、靈鷲院と號した。【櫛笥寺中興】堺櫛笥寺の中興開山で、(櫛笥寺略緣起)【立本寺十七世】京都立本寺の第十七世である。(本化別頭佛祖統記)【出生の奇聞】京都江村久茂の子で、慶長四年六月出生した。(三國高僧略傳)(櫛笥寺略緣起には、京都西陣絹屋清左衞門の娘梅、懷妊中に死亡し、之を立本寺に葬つたが、甕棺中に於て出生した。日東之を養育し、十二歳の時、師事して教養を受けたとある。)八歳惠光寺の日玄に師事し、三十一歳若狹長源寺の住職となつた。(本化別頭佛祖統記)日審辯舌爽快に、巧に譬喩を用ひ、能く聽衆を首肯せしめた。(草山集)【普廬那審師】故に世に普廬那審師と稱した。又甕棺中に出生したのことで、子安審師とも壺審師とも稱せられた。(櫛笥寺略緣起)爾來一身を化導に委ね、全國を囘遊し、四十三歳に至る迄、法座七千餘座に達した。【六條談林の化主】族兄日養の後を繼いで、六條談林の化主となり、正保四年立本寺の住職となり、寺側に老父を安んじて、孝養を怠らなかつた。【法華進講】曾て近衞公邸に於て、後水尾上皇の御前に法華を講じ、叡感を蒙つた。又搢紳の化導を受くるもの頗る多かつた。萬治二年正月退隱し、誦經唱題を事とし、寬文六年三月十五日示寂した。世壽六十八歳。(本化別頭佛祖統記、草山集、三國高僧略傳)【著書】著作に、口演鈔、法華座敷談義(一名圓頓學道法話)がある。(日宗著述目錄)