【堺に生る】日進は漸々院と號した。字は了慶、姓は高橋、寶曆十二年堺に生れた。幼時父母を亡ひ伯父に養はれ、年甫めて十一、追慕の情に堪へず、【成就寺得度】遂に成就寺の日因を師として薙髮した。【龍藏寺住職】既にして和氣の妙泉寺日喜の門に就き、十六歳京都鷹峰の談林に遊び、十八歳下總飯高の談林に入り、講師圓乘に學び、二十五歳にして宗祖日蓮の舊蹟下總龍藏寺に入つて其住職となつた。爾來聖蹟の顯彰に力め、堂宇を造營し、田園を附庸として益を受けしめ、寺格を昇して永世の客席とし、身は尚講席に侍して怠らなかつた。學業亦大に進み、上席に昇り、法華玄義を講説した。斯くして名成つて歳三十九、寺に歸り益々刻苦精勵し、妙經を誦すること三千餘部、之を書寫すること三部、講席に上ること一千餘席に及び、人皆其精力の絶倫なるを稱した。【滿願寺二十一世】享和三年洛東滿願寺の第二十一世に陞住に際しては寢食を忘れて復興に力め、六年にして目的を達した。【經王寺は主題字碑を建つ】文化五年四十七歳の時、其考妣の墳墓經王寺(九間町東二丁)に在るの故を以て、首題字碑を寺頭に建てゝ泉下の靈を供養した。碑文は弟子日承の撰んだものである。(日進上人孝教碑文)文政十一年十一月八日示寂した。(滿願寺囘答書)世壽六十七歳。