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(一六九)小山朝三

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 【九間町の人】小山朝三は堺九間町に住した。高志羪浩の緣族である。【難波默庵林春齋に學ぶ】幼にして頴敏、壯年京都に出でゝ難波默庵に師事し、後江戸に至り、林春齋の門に入つた。【對馬侯に仕ふ】春齋其篤學に感じ、對馬侯宗義眞に推擧し、遂に國政に參與した。(全堺詳志附錄)【朝鮮使節詰問の衝に當る】天和二年八月朝鮮の信使、正使尹趾完、副使李彦綱、從事官朴慶俊等來朝するや(通航一覽卷五十)使節滯留中、朝三等館伴の員に列し、德川光圀の命を享けて、朝鮮の學士及び醫官等に就き、彼國の情勢、風物等を問ふた。(通航一覽卷百十、西山遺草)九月使節は方物を光圀に贈つたが儀及ばざるところあり、光圀中村顧言をして、三項を擧げて之を詰責せしめた。通詞加勢五右衞門は事情の困難を察し、其通詞に當ることを避けた。是に於て朝三代はつて、一に贈るところの方物、唯員數を錄して姓名を具せざること、一に楮尾に一印を押して、三使の贈るところとせざること、三に印文疑はしく、尹公の二字に似て居る、古人の交際には自ら名を稱し、字を書せず、抑々是の如きは貴國の法であるかと云ひ、中村新八の姓名を書加へ、之を三使に達した。三使答ふることを得ず、やがて光圀書をして白銀三百兩を三使に贈つたが、之を受けず復書して無禮を陳謝した。爾來信使の弊風を改め得たのは、朝三等の功績である。(通航一覽卷百六、西山遺草)著書若干卷あり、貞享元年病歿した。(全堺詳志附錄)