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(一七九)由良箕山

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 由良箕山名は儀、字は彦鳳、箕山と號し、孫助と稱した。(一書孫兵衞)【豊後の人】【徂徠學派】豐後の人、清廉學を好み、江戸に遊んで徂徠派學を修めた。(浪速人傑談上)或は徂徠晚年の門人宇佐美灊水の弟子かとも云はれてゐる。(浪華人物誌卷一)中年の後京都に徙り、兼ねて醫を業とした。後又大阪に移りて以來は專ら儒學を以て門戸を開いた。嘗て明人鄧百拙編述鍥註捷錄の句讀を正し、和譯して麗藻と名け刊行した。杵築侯其篤學を聞て之を聘用せんとしたが、鄕國と大阪と隔年更代ならばとの志望を述べたが、終に其意を充たされなかつた。【其女高三家に嫁す】其出女子は堺の高三家に嫁し、箕山亦文化二年五月二十四日同家に於て歿した。年壽六十八。【墓所】顯本寺(現宿院町東三丁)に葬り、墓碑を存してゐる。(浪速人傑談上、浪華人物誌卷一)