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(一八四)小川宗右衞門

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 小川宗右衞門諱は博篤、字は子淫、敬齋と號した。本池田氏、後出でゝ小川氏を嗣ぐ。【靈松義讚に學ぶ】弱冠業を墨江の靈松義讚に受けた。(小川敬齋墓誌)敬齋溫厚篤實深く經學に通じ、又詩文を善くした。(小川敬齋墓誌草稿)然るに敬齋は由來堺は古來の貿易港として殷賑の地なるに關らず、就學の者甚だ尠きを憂へ、子弟養成を念とし、遂に天保十三年時の堺奉行水野忠一に宛て、鄕學校設立の願書を提出した。忠一卽ち之を幕府に以聞し、翌年春に至り、許可を與へ、且多年の功勞に酬ゐんが爲めに白銀二十枚、稟米二口を給した。【鄕學所開設】是に於て敬齋鄕學所を北絲屋町(現車之町東一丁)に開設した。(堺區學事沿革略記)【帶刀免許】これ當地學校開設の嚆矢で、功により弘化元年三月南北幷泉州に於て帶刀を免された。(沙界年鑑)【墓所】爾來三箇年餘、同三年六月二十七日享年五十五歳を以て病歿し、本教寺(甲斐町東四丁)先塋の次に葬つた。(小川敬齋墓誌)