高橋士得名は悳、字は士得、白水と號した。堺の人、本姓は山本氏、少壯高橋氏を襲いだ。【其先は大阪の名門】高橋氏は大阪北濱一丁目に住し、代々平九郞を通稱とし、市内の名門であつた。初配中尾氏に男女若干人があつたが不幸にして母子共に逝き、後配白川氏には三男三女があつたが、老年に及ぶも後嗣の男子、猶幼弱の爲めに、井端氏の子を養ひ、長女に配して家を嗣がしめた。【學派と交友】士得人と爲り、質直學を好み、深く荻生徂徠の學説を信じ、厚く藤澤東畡と交つた。是より先、生家の家産衰へ、終に祖先の祭祀を絶つこと年既に久しきに至り、心之を傷み、弘化三年齡七十歳の時、知友東畡に撰文を囑し、自己の壽藏碑を堺南宗寺内本源院の兆域に建てた。【壽碑建營と心情】其意、南宗寺は生家先塋の存するところで、今此碑を此處に建てなば、百歳の後、其子孫たるもの展墓の際に方り、父祖の親塋荒廢の狀を見るに忍びず、祭祀の忽にすることの出來ない所以を悟らしめんとする爲めであつた。【老年の研鑽】爾來猶矍鑠として學を廢せず、十三經、二十二史の類、皆親ら校合して之に訓點を加へた。尋いで周易を閲し、其業未だ半ならざるに中道にして歿した。時に安政四年二月朔日、享年八十一歳であつた。【墓所】私諡して清譽翁と曰ひ、本源院の塋域に葬つた。(高橋白水墓碑銘)